サービス付き高齢者向け住宅への転職失敗談
これから私の転職失敗談を皆さんにお伝えしたいと思います。
いまの時代、50代で再就職先を探すといっても、簡単ではありません。
私は大卒ですし、30年近く、それなりに良い仕事をやってきた自負がありました。
しかし、世の中に出ている求人情報には、私のようなキャリアやスキルは、求められていないのです。
では、なぜ、50代で転職しなければならなかったのか、その経緯からたどってみたいと思います。
- 執筆者の情報
- 名前:山田一郎(仮名)
性別:男性
転職経験:4回
現在の年齢:53歳
転職時の年齢と前職:35歳、47歳、52歳に2度(広告会社、住宅会社、福祉、保険営業を経験)
今回の記事の目次
50代でリストラ。再就職先探しは大変
私は、長いこと、広告業界で働いてきました。東京で10年以上働き、その後、妻の実家のある地方都市に移り住んでからも10年以上。
計25年くらいは広告業界で仕事をし、それなりの経験や実績も残してきたと自負していました。
ある転機があって、慣れ親しんだ広告業界を去り、新たなチャレンジをしようと選んだのが住宅業界です。47歳の時でした。
転職先は、広告会社時代の取引先だった会社です。社長とは10年以上のお付き合いで気心も知れていたので、すんなりと業務に入っていきました。
入社時の約束は、停滞していた業績を成長軌道に乗せること。
長年、近くで見てきた会社でしたから、その特徴もよくわかっていました。
「この会社なら、私の知識と経験をもってすれば伸ばせる」そう確信して入社した訳です。
実際に業務に入っていくと、改善点が明確です。そこを直せばいいというポイントは、現場である、店のマネジメント力の強化。
典型的な社長のワンマン会社で、社内全体が指示待ち状態なのです。
社長が白と言えば白、といった感じですから、現場で疑問に思う人がいても、それは表に出せないままでガスが溜まっているような感じだったのです。
そこで、拠点長のマネジメント力を強化して、強い現場づくりを行うことにしたのです。
その改革は、結局は、成果につながりませんでした。確実に現場のマネジメント力はついたのですが、いざこれから数字を挙げられると思った矢先に東日本大震災。
その後も、職人不足やら資材高騰のあおりを受けて成長基調に乗せられません。
そうしているうちに、私の存在意義も薄まっていき、リストラされたのでした。
なかなか決まらない次の勤め先
住宅会社をリストラされて、50代で初めて経験する転職の厳しさ。
それまでも転職の経験はありましたが、自分で先に転職先を見つけて円満退社していたので、ハローワークにさえ行ったことがありません。
失業するとどんな手続きが必要なのかすら知らなかったのです。
そんな中で、最初にやった転職活動は、友人、知人を介して就職先を紹介してもらうことでした。
会社をリストラされたことを話すと、「だったら、知ってる所があるから聞いてあげるよ」と言ってくれる友人が2、3人おり、それに頼ることにしたのです。
最初に話があったのは、ビジネスホテルのマーケティング担当者を探している会社があるというお話でした。
実際に社長さんにお会いしてみると、勉強熱心でやる気も満ち溢れており、とても好印象でした。
一週間後に、他の複数の役員の方などと面接する予定でしたが、家族や親戚の人と話をした時に、「止めておいた方がいい」と口を揃えて言うのです。
話を聞いてみると、現役の従業員の方からの評判が悪いようなのです。
それも1人ではありません。
聞く人聞く人に、いい話を聞かないと言われると、私も止めておいた方がいいのかなと思うようになり、面接には行きましたが、他からも話がある(実際に話があったので)という理由で、少し時間をいただくことにして他の話を進めたりしたのです。
しかし、3,4社、話があったものの具体的に話が進むことはありませんでした。
そうやって、何も進展がないまま1カ月が過ぎていきました。
悪い噂を振り切って就職してみると
そうして失業1カ月後に、ハローワークで、求人情報を探しはじめることになったのです。
できれば、前職までの経験を生かしたい。初めは、まだ、そんな希望をもっていたのですが、何千という求人情報を見ても、ほとんど希望の職種は出てきません。
たまに有ったかと思うと、年齢で引っかかってしまいます。
それでも3、4社、年齢制限に引っかからないことと、自分のキャリアが多少活かせそうなところを選んで、履歴書や業務経歴書を送ってみましたが、書類だけで不採用という通知が届くだけでした。
何日か通ううちに、一つの求人票に目が留まりました。
ある医療法人が、マネージャー候補を募集していたのです。
その頃には、職種も給与も、自分が希望しているような求人情報はないと理解していましたから、他よりも「マシ」な求人情報に思えて、書類を送ってみた所、次は面接という連絡が来たのです。
そんな話を家族にしましたら、「あそこのトップは、変人だよ。」業界でも有名だから、やめておいた方がいい」と、ここもよほど評判が悪いというのです。
そう言われても、他に就職先のあてはありません。
それに、私も社会人として20数年の経験と実績があります。
その中では、さまざまなくせ者とも付き合ってきました。
「多少のことは大丈夫」と啖呵切って面接に向かいました。
面接官は、噂の代表者の方と、病院の院長、副院長の3人です。質問は、ほとんど噂の代表者の方からばかり。
その時は、まだ知らされていませんでしたが、先方が想定していた配属先というのがオープンしてから1年半も不採算が続いている高齢者施設。その責任者が噂の代表者の方だったという訳です。
その方は質問の合間に、しきりに「マーケティングの力が必要」と力説されていました。
見事採用。張り切って初出勤してみたら
面接の翌日、電話があり、見事採用が決まりました。
その時はまだ、配属先は知らされていません。
今どきの医療法人の多くは、老人福祉施設など、多数の施設やサービス事業を展開している所が多いです。
そこもご多分に漏れず十指に余る事業所を展開していることは面接前に調べて知っていましたので、どこに配属されてもいいつもりでいました。
入社して2日間は新人研修です。時間単位で講師が入れ替わって現場で必要な基礎知識などを学びます。
6名ほど同期がいて一緒に受けていた2日目午後は、他のメンバーから離れて、配属先の会議に参加せよという話。
命令ですから逆らえません。言われたとおりに、車で40分かけて指定場所に向かいました。
会議室には、代表の方の他に4人。これから、私が勤務することになるサービス付き高齢者住宅の運営や営業のスタッフです。
簡単な現状説明があっただけで、私もここを担当することを初めて知った状態ですから簡単な自己紹介をしただけです。
後になって振り返ってみると、研修を抜けてまで行く必要があったのかと思う会議?顔合わせ会でした。
高齢者向けマンションの運営
研修の翌日から、車で50分かけて高齢者施設に通勤です。
その施設、サービス付き高齢者向け住宅というのは、数年前に新設されたばかりのジャンルに属する施設です。
簡単に言ってしまえば、高齢者向けのマンション。介護サービスが前提でない住居です。
ここ2,3年で一気に建てられたので、人口の少ない地方都市では供給過剰で空き室が多いという状態。
しかも、ここは、約50室あり、街の規模からいえばキャパが大きすぎます。
設備も充実しているので、その分費用も高めということもあって、競合している同種の施設の中でも空き室率は高い状況でした。
都心部では、高齢者施設が不足しているとニュースで聞きますが、地方はその逆ということも多いのです。
さて、勤務初日。しばらくは自由に施設内を見たり、スタッフの話を聞いて、集客策を探りましょうという話だったので、最初の10日間くらいは現状把握と課題の抽出、高齢者福祉のことなど業界研究で時間は過ぎていきます。
超ワンマンな王様経営者と奴隷たち
2週間に一度、運営会議というのがあり、そこに例の代表の方が参加して、運営と営業についての報告、提案を行っていました。
私もマネージャー候補ということで、ゆくゆくは責任者になる新入りという、何とも中途半端な立場で会議に臨みます。
まずは、運営報告が始まりました。担当者が、それまでの2週間で行った業務内容、新たな取り組み、そして代表の方への提案といった流れで話をしていきます。
それに対して、代表の方が一方的に指示を出して、次の議題に移るという感じです。
言ってみれば、王様と奴隷。王様に対して申したてを行って、イエスかノーか、出された回答を受け取る。
そこで議論や異議申し立ての余地はありません。
これは、会議じゃありません。医者の問診と同じです。いや、今なら医者の問診の方がよっぽどましです。
一事が万事、そうでした。
「大浴場を、入居者さんが入浴しやすい時間に変更したい」という話があった時に、その変更によって何の支障もないのならやるだけというのが普通だと、私は考えていましたが、代表の方からは何度もノーという返事が返ってくるというのです。
数百人規模の組織のトップが決済するような内容ではありません。
といいますか、そもそも、いちいち稟議をあげるような話でないことまでお伺いを立てなければいけない組織というものと、関わったことがない私には理解できないことばかりでした。
研修期間中にダメ社員の烙印
そうして1カ月が経ったところのことです。
ある媒体に広告を出そうということになり、私がその担当になりました。
話が決まってから2日間くらいしか時間がなく、すぐに着手してその日のうちに案をまとめて提出しました。
しかし、例の代表者の方からは、何の返事ももらえません。催促してもなしのつぶてです。
そうしているうちに、私ではなく他のスタッフが、忙しそうにいろいろ作業をし始めました。
そうです。代表の方から具体的な指示が次々と出て、その対応に追われていたのです。
私は無視され、梯子を外されてしまいました。
試用期間が3カ月ありましたが、そんな中で残りの2カ月は、大した仕事もさせてもらえないまま、本採用の条件が提示されました。
マネージャー職ではなく一般職としてなら残れること、給料が数万円下がることなどの条件を提示された私は、迷わず退職の道を選んだのです。
職場環境を自分で変えてみせようと思った私が浅はかだったと、今は自己反省しています。
王様のやり方を変えることなどできないのです。
いくら就職先が見つからないからと言っても、無理なものは無理でした。
周囲からの意見を聞いて、もっと別の道を探すべきだったのでしょう。
自分のキャリアやスキルを活かせる場所を見つけないといけませんね。
この記事の筆者
山田一郎(仮名)
1963 年生まれの53才。
20年以上、広告業界に籍を置いて、広告・WEB・イベント政策などを手掛けてきた。
その後、異業種に転職し、5年間、地方企業の経営本部で責任者(室長)として勤務し、会社のマネジメント力の強化を担当。
しかし、東日本大震災の影響を受けて、現場がうまくまわらずに、いつまで経っても業績が一向に伸びぬまま存在意義を失って、リストラに遭って退職することとなった。
50代での再就職は思ったように進まず、ようやく採用が決まったのは、集客に困っていた高齢者施設のマネージャー職だった。