第三回 35歳男性の転職歴 ~初めてのフリー、そこで得た教訓~
- 体験者の情報
- 名前:松澤 悠希(仮名)
性別:男性
転職経験:8回
現在の年齢:35歳
転職時の年齢と前職:20代~30代
意外と働きたくなるもので
めでたく、倒産という事態に遭遇し、晴れて無職となった僕。
いままで、働きたくないとひたすら思っていたものの、ずっと無職でいると不思議と働きたくなるものだ。
なんというか、自分の存在意義とか、将来への不安とか。それよりも、ただ単に肩身が狭かっただけかもしれない。
とか、偉そうに言ってみたものの、見事に失業手当が給付される半年分を遊んで過ごした僕である。もちろん、就活自体はしていた。
一人暮らしの身の上なので、収入がなくなったら死んでしまうし、さすがの僕でも、無職が長引くほど後々不利になっていくことくらいわかっていた。
それで、実はこの半年間で内定はもらっていたのだ。ただ、給付金をもらい切りたかったので、入社時期は引き延ばしていたのだが。内定をくれたのは、ベンチャーとはまた異なる、老舗の広告制作会社だった。
「新しい事業がー」とか「創設がー」とか、そういった謳い文句の会社は確かに入りやすいかもしれないし、実際に入ってみるとやりがいもあるのだろうけど、やはり前の会社の件から少し腰が引けていた。
そこで、今回はWebも紙媒体も扱っているという部分でスキルアップを。そして、大手のクライアントと定期的に仕事をしているという部分で安定性を。その2点を基準に選んだのだった。
転職半年でフリーランスの道へ
というような前振りがあった後に、大変恐縮なのだが、この会社はわずか半年で辞めることになる。
別に、僕が何かやらかしたわけでもないし、人間関係がうまくいかなかったというわけでもない。
むしろ、僕にはもったいないくらいのいい人揃いだったと思う。まぁ、確かに少しブラックだったかもしれないけれど。
3連徹夜があったり、上司が作業フローを把握してない無能だったり、サービス残業は当たり前だったり(タイムカードは定時で切る!)。
でもそんなことを言っていたら、出版・広告でなんて働けないし、むしろいままでに在籍していた会社よりは制度的にもしっかりしていたと思う。
ではなぜ辞めたのか。単純に、昔の先輩が大手出版社に勤めていて、外部スタッフとしてフリーでやっていく気はないか、と誘われたのだ。
もちろん誘われただけではなく、最初から(小さいものの)定期の仕事が確約されていたということもある。まぁ、実際問題、出版系に戻る機会を探っていたということもあった。
どうしても出版編集というのは、辛いわりに人気職種であり、中途の求人というものがなかなかなかったのだ。
あったとしても、「これはやばい!」というような業務内容やお給料だったので、除外していたのだ。
そんな僕にとって渡りに船。採用してくれた企業様、申し訳ございません!僕は、こういう奴なんです!
そして僕は、またもや「なんとなく」という気構えで、初のフリーランスになってしまったのだ。
なめていたけど、フリーは大変だ
フワフワと生きてきて、これまたフワフワと誘いに乗ってフリーランスの道を歩み始めてしまった。
それまで、何事もなんとかなってきたので、もちろん今回もなんとかなるだろうと思っていたけれど、なかなか辛いものがあった。
まず、わかっていたことだが、原稿料をはじめとするギャランティの入金が遅いのだ。
会社員であれば、何もせずとも、いやもちろん仕事はするけれども、毎月決まった額がお給料として振り込まれる。
だがフリーの場合、大抵は納品してから翌月。もしくは翌々月だったりする。これは、僕のようにその日暮らしをしてきた人間にとってかなりの痛手だった。
大げさではなく、毎日がご飯とモヤシ、そんな生活が続いた。ただ、これは業界に身を置く者としてある程度は覚悟をしていたし、その気になれば日雇いバイトでもすればいいかと思っていた。
仕事が欲しい
それよりも辛いのは、なんといっても仕事を獲得するということの難しさだった。
それまで在籍していた会社とは、ほぼほぼ疎遠になっていたので、仕事のおこぼれを貰うことは望めない。
かといって、他の会社にはそこまでツテがあるわけでもないので、新規の仕事を増やすという面ではかなり苦労をした。
今まで以上に、既存の仕事は真面目にやって信頼を獲得していって、あとは地道な営業活動の繰り返し。
知り合いに「どっかいい会社ないっすか?」と訊いては、ポートフォリオを持っていく。
あとはもう、企画書を書きまくって、担当の編集者に提出。担当編集さんとは、無意味に呑みに行きまくって、情報収集や新規の仕事がないか探りを入れる。
定期の仕事は、隔月で20〜30万程度だったから、ギリギリ生きていけないくらい。だから、まぁ、必死だった。
いつも寝る前には、翌月の仕事を数えて、明日のご飯の心配をする。そして、将来の不安に苛まれるのだ。
きっとこれは、ある程度稼いでいたとしても、つきまとうもので、フリーの宿命みたいなものだと思う。
結局、仕事に対する姿勢の欠如
先行きへの不安に悩まされながらも、僕のフリーとしての活動は約3年続いた。
そんなに稼いでいたわけではないけれど、食べるには困らないくらい、といったところだった。
初期に紹介してもらった定期の仕事をこなしつつも、単行本の企画編集をしたり、デザイン会社で広告のディレクターをやったり、それなりに仕事をしていた。
ただ、やはり「稼ぎたい!」と思ってフリーになった人とは違って、僕のモチベーションは「そこそこ不自由なく生きていければいい」というもので、ドロップアウトは必然だったのだと思う。
そんな感覚でやっていたから、仕事を増やすことに懸命にはなれなかったし、だからこそギリギリ最低限の仕事しかしていなかった。
そんなときに、定期の仕事がなくなってしまえば、それは致命的である。
具体的には、その雑誌が大手事務所(芸能とか音楽とか)と揉めてしまい、廃刊(体裁的には休刊)せざるを得なくなってしまったのだ。
出版業界から広告業界へ
そうなると、僕の決断は早かった。
正直言って、フリー生活のシビアさには辟易していたし、そこからバンバン営業をしたり企画を出したりすることで盛り返す気力などさらさらなかった。
残った仕事を片付ける算段をつけ、僕は再び何度目かわからない就活に勤しんだ。勤しむはずだったのだが、またこれが1社目で内定が出てしまった。
もちろん苦労することが嫌な僕は、即決。まぁ、その日暮らしでフリー生活を送っていたので、金銭的に余裕がなかったということもあるが。なんとも懲りない、安易な人生なのだろうか。
ちなみに、自己弁護ではないが、今回の就活に関しては少し意図があった。フリーランスになって様々な仕事をやってわかったのだが、確実に広告をやっていたほうが良いと思った。
僕がフリーだった3年間でも、出版業界は目に見えて右肩下がりだったのだ。
単行本の企画は通らなくなってきていたし(ただ面白い、ではダメで著者の実績や他社の同種企画での実績が重視されていた。つまり冒険はしない、に移行していた)、以前と比べるとギャラも下がってきていた。
また、出版では企画を出しただけではお金にならず、企画を苦労して通して制作して、それでやっとお金になる。
それに比べると広告は、短いスパンでお金になることが多く、その割にギャラも悪くない。もちろん媒体にもよるし、修正が異様に多かったりということもあるが。
そんなことから、今回の就活では広告制作に絞っていた。もちろん大手広告代理店というようなハードルの高いところではなく、制作会社だが。
そして運良く、給料も業界的にそれなりに良く、業績も安定していそうな会社に拾ってもらったわけだ。
これだけ書くと、単に運が良いだけと思われそうなので補足すると(入社した後に聞いたこと)、結局即戦力になりそうだったからということらしい。
確かに、フリーでそれなりにやっていたこともあり、同世代の同業者に比べたら案件を仕上げることに関しては数をこなしてきた。
それに、外部スタッフと組んで仕事をすることが多かったため、そこそこ人脈があったことも良かったのだろうか。
それを如何に面接で伝えられるかだろう。正直、自信がなくてもいい。「できる」と言ってしまえばいい。
したり顔で自信たっぷりに話せば、相手はだいたい錯覚してしまうものだ。
まぁ、あまり自分の能力を飛び越えたものはやめたほうがいいとは思うが、謙虚過ぎるのは自分の価値を貶めることになる。
もちろん自信も嫌味にならない程度が大事で、謙虚(っぽい)な姿勢も見せておくと好感が持てるだろう。
こんなことを言ってもピンとこないだろうから、結局は面接の場数を踏むしかないかもしれないが。
ともあれ、僕の何度目かの会社員生活がスタートした。かれこれ、社会人8年目。もはや、入社初日でも全くドキドキしなくなってしまっていた。
この記事の筆者
松澤 悠希(仮名)
1981年生まれの35歳。
大学卒業後、中小の編集プロダクションに就職する。
雑誌の編集長を務めるが、3年間の勤務ののち退職。
その後、広告業界へとシフトしていくものの、生来の自由気ままな性格が災いしてか、転職を重ねることとなる。
8度の転職を経て、自分に合っているのはフリーランスだと考え、2015年に独立。現在は、広告ディレクター・ライターとして、主に印刷物を手がける。