第一回 35歳男性の転職歴 ~就職氷河期、「業界に潜り込むこと」を優先した結果~
- 体験者の情報
- 名前:松澤 悠希(仮名)
性別:男性
転職経験:8回
現在の年齢:35歳
転職時の年齢と前職:20代~30代
堕落した学生生活の果て
社会人として10年と少し。
それが長いか短いかは置いておいて、その中での数度にわたる転職で何を得てきて、何を喪ってきたのか。
少しでも皆さんに参考にしていただくために、まずは僕自身のことを知ってもらわなければならないと思う。
ちなみに現在は、肩書をつけるとしたらフリーランスの広告ディレクター兼ライターだろうか。
人の斡旋など、その肩書で十把一絡げにできないような細かいこともやっているのだが、それは他人より多く様々な職場を経験し、様々な人たちと出会ってきたからこそのアドバンテージといえると思う。
そういったことは後々に述べていくとして、僕が学生だったのは現在から10年と少し前。
2000年代の前半。いわゆる就職氷河期と揶揄された世代の、真只中というわけだ。
もちろん僕としても数少ない友人など周りが騒ぎ立てるので、なんとなく就職難なんだなぁ、というくらいに自覚していた。
しかし、生来の無軌道かつ楽観的な性格が災いしたのか、全く危機感に欠けていたことは否めなかった。
むしろ、1、2回生時に遊び呆けていたため、卒業が危ぶまれている単位の方が心配だった。
まぁ、その心配も虚しく、結局は計算ミスで1単位が足りないことに卒業間近に気づき、教授に華麗なる土下座を決め込むことになるわけだったのだが。
僕がどんな土下座をしたのかという話は、またの機会にすることにして、ともあれ4回生の後半に差し掛かった時点で、就職活動らしきことはほぼやっていなかった。
むしろ、気まぐれで出した書類を温情で通してくれたであろう、某企業の面接を当日にぶっちぎったりしていた。
そして、当たり前のように卒業式を迎え、周りが社会人として一歩を踏み出したその時、僕は就職浪人生としての道へと一歩踏み出したのだった。
今まで学生という肩書に守られていた僕が、自分にはもはや肩書が全く無いことに気づき、やっと、かなり遅ればせながら、真剣に就職について考え始めた瞬間だった。
正直、この拙文を読んでいただいている方々からすれば、「なんてダメなやつ」とか、「自分の息子だったら殴りたい」とか思うことだろう。
僕としても同感である。結局のところで、僕は自堕落で、誰よりも自分に甘く、そして世の中を甘く見ていた。
ともあれ、さすがの僕も焦り始めた。
念願の編集者への道
時はすでに遅きに失していたが、焦り始めた。実はなりたいものはあって、いわゆる雑誌などの編集者になりたかった。
それは、小説や漫画が好きだからという安易な発想で、志というほどに真剣なわけではなかった。
現に在籍していた学部も、全く関係のないものだった(ちなみに教育学部だ)。
しかしもはや、将来を再検討するなどと悠長なことを言っていられるわけもなく、とりあえず様々な企業を受け始めたのだ。
まぁ、結論から書くと、すべて落ちた。ぐうたらな学生生活を、人生を送ってきたくせに、自己評価ばかり高い僕は、名だたる大手出版社をいくつも受け、その度に人生の厳しさを痛感させられた。
いいところまでいったケースもないわけではなかったのだが、そのチャンスも活かせなかった。
今だから言えるけども、企業側としても、甘ったるい思考の、懸命さが欠片も見えないやつなんていらないだろう。
だが、見栄っ張りな僕としては、周りに宣言してしまった以上後には退けない。
その反面、身の程を思い知ったので、まずは業界に潜り込むために、いわゆる編集プロダクションと呼ばれる企業に的を絞った。
編プロとは、主に出版社の下請けとして、実制作を請け負う会社である。
そして、その1発目、ついに念願の内定というものをもらってしまったのだ。
もはや浮かれていた僕は、進行中だった他の会社に断りを入れ、その会社(A社とする)に入社する旨を伝えたのだった。
過去の自分に声を大にして言いたい。検討しろ。最初に入る会社はものすごく肝心だ。
ジェットコースターのような日々
晴れてA社に入社することとなったのだが、正直一抹の不安がないでわけでもなかった。
面接の際に対応してくれた、金髪ロン毛でタンクトップのお兄さん。
任侠映画に出てきそうな社長。そして、全社員合わせて10人未満。実際はやめておいたほうがよかったのかもしれない。
が、これは結果論になるのだが、最初に厳しい環境に身を置いたほうが、成長の速度は格段に速い。
僕はこののち、様々な会社に身を置くことになるが、どの会社もA社よりはしっかりしていた。
新人は大事に、しっかりとした教育を施されていた。
だがその教育とは裏腹に、これは多大な主観が入っているが、僕の半年分を3年間ほどかけて成長していると感じたのだ。
もちろん個人差はあるし、急激に成長を促すことがいいことばかりとも言えない。
だが、成長の遅さを嘆くのであれば、千尋の谷に落とすべきだろう。
まぁ、その話ものちに触れることもあるだろう。ともあれ、僕の社会人ライフはスタートした。正直、最初のうちは驚きの連続だった。というか、驚かなかったことはなかった。
まず、午前中は誰も出社しない。正確には、社長と経理のおばちゃんはきているのだが、編集部員は誰一人こない。
やっと午後になり、ちらほらと社員が出社してくるのだが、何も仕事をしていないのにランチタイム。
そして、夕方にはみんなどこかに(たぶんパチンコとか)遊びに行ってしまうのだ。
かっこよく言えば、労働裁量性、フレックスというやつだ。
ただ、これだけを聞くと仕事を全くやっていないかのようだが、実は各雑誌の発行日間近には、担当者は徹夜をしたりしている。
自分のせいで雑誌が発行されなかったりしたら、何百、何千万の損害が出てしまうのだから当たり前なのだけれど。
まぁ、こんな社風だから、新人教育なんてあってないようなものだ。
入社後半年で編集長に
僕は、入社直後に月刊漫画誌に配属されたのだが、同じ雑誌を担当していた先輩がかなりぐうたらだった。
右も左もわからない僕に、1号目からすべての記事を書かせ、さらに漫画家さんの担当も半分近く移譲された。
担当していた雑誌は、だいたい10〜15人程度の漫画家さんが描いていたので、新人の僕にとっては大げさではなく目が回るようだった(そもそも大手出版社だったりすると、一人の編集に対して作家は2〜3人程度だと思う)。
そして作業的な部分も、ほとんどが僕に割り振られる。必然的に、入社1カ月にして徹夜である。
そんな具合に、ただただがむしゃらに仕事をこなしていた僕に、さらに衝撃的な出来事が起こる。
ある日、編集局長に呼ばれた。そして告げられたのは、「今日から編集長だから」。つまり、僕と同じ雑誌を担当していた先輩がクビになったのだ。
そして、実質、雑誌を一人で切り盛りしていた僕が昇格したというわけだった。
これが、入社後たかだか半年の出来事だった。
社会人としての人格を決定付けた日々
突如として編集長に据えられてしまったわけだが、そう悪いことばかりではなかった。
幸い、僕は小器用なこともあり、実務はなんでもソツなくこなすことができるようになっていた。
なんというか、素晴らしい!というわけではないけれど、常に中の上という出来栄え。
ただ、一人で1誌を担当するのはさすがに重労働だったので、新入社員を部下とすることとなった。
早くも部下持ちになってしまったのだが、これはかなり良い経験だったと思う。
もちろん、人に教えられるほど大層な経験を持っているわけではなかったが、それでも共に育っていかなければ自分の首が締まってしまう。
だから、常に自分の能力を客観的に見て、さらに部下の能力や適性を冷静に分析する。
そして、どんな仕事を割り振ったらいいのか、どんな作家さんを担当させれば生き生きと仕事ができるのかを見定め、仕事をさせながら成長を促す。
自分があまりにも放置されすぎた故に、試行錯誤を繰り返すことができた。
おそらく、 この経験があったから、その後どの会社に行っても教育係を任されることが多かったのだと思う。
そしてそれなりに「使えるように育てる」ことと、「後輩と良い関係を築く」ことに関しては評価してもらっていた。
だから、このA社で経験したことにしても、悪いことばかりではなかったのだと思う。
どんな経験もスキルになる
また、自分が雑誌のトップになったことにより、様々な外部の人たちと接することが多くなった。
作家やデザイナー、それにクライアントにあたる出版社の人たちといった面々だ。
おそらく出版(もしくは広告)という業界は、もちろん個人差はあるけれども、かなり個性的な人たちが集まっている。
悪く言えば、変人が多い。
そんな中で 信頼を得ていくには、ただただ低頭平身していたところでダメなのだ。 それでは上辺の付き合いしかできない。
甘える時は甘えて、地の自分をさらけ出す。でも、言うべきときはしっかりと。
読み手のみなさんからしたら当たり前のことかもしれないが、この社会人としての方針が定まったのがこの時期だった。
もちろん僕の本質的な性格という部分は、それまでに様々な人に形作られてきたのだと思うけれど、仕事に携わる際の性格はこの時期に形成された。
それも、自分ですべてをやらなければならない環境で、試行錯誤を繰り返して、成功も失敗もし続けた結果なのだと思う。
入社3年目の事件
編集長に抜擢されてから、我ながら順調に日々を過ごしていた。
新しい連載を立ち上げたり、新規の漫画家さんを発掘して売り出したり。雑誌そのものの売り上げも、まずまず堅調。
お給料もそれなりにもらっていた(確か、30万前後だったと思う。今思うと、零細編プロとしてはかなり厚遇といってよいだろう)。
また、そういった社内のことだけではなく、外部の漫画家さんやライターさん、デザイナーさんとも上手く信頼関係を築いていたと思う。
こちらが発注する側だとしても、あちらからは技術を提供されている。だからこそ 対等だと、自身に言い聞かせて立ち振る舞っていた。
そして、そういったことで 信頼を築くことにより、自分が将来的に他の会社に移った時や、万が一独立した時に力になってくれると信じていた。
実際、外部のライターさんから文章力や人間性を買っていただき、副業でいろいろな記事を発注されたりもしていた。
もちろん、会社としては禁止されていたので、決して褒められた所業ではないが、自身のスキルアップには確実に役立っていた。
イラストレーターやフォトショップ、クオーク(今でいうとインデザインのような)まで、もちろん本職には遠く及ばないが、それなりに使えるようになっていったのだ。
そして、気がつけば、入社してから3年の月日が経過していた。その頃、僕は漠然と先のことを考え始めていた。
前述したように、僕は自己評価が限りなく高い男だった。周りの先輩にあたる人たちより、確実に仕事は速かったし、質も高いと自負していた。
別に向上心が、とかいうわけではない。正直言うと、向上心なんて僕には無縁の言葉だ。
どちらかというと、楽をして稼ぎたいし、なんなら働きたくないくらいだ。
だからこそ、今の会社よりも高く評価してくれるところがあれば、そこに移りたいとも考えていた。
また、3年で経験者として扱ってもらえると一般的にいわれるが、僕もご多分に漏れずその3年信者だったので、そろそろ潮時かとも思っていた。
ただ、日和見主義、ぬるま湯大好きの僕としては、それなりに評価されて、自由に振る舞っていられる(傍若無人とは、きっとこの時期の僕にぴったりだったと思うくらい、先輩たちにも無礼だった)今も捨て難かった。
転機は突然やってくる
そんな風に毎日を過ごしていたある日、転機は突然やってきた。突然と書いたが、必然の方が近いかもしれない。
今までほとんど出番のなかった編集局長と僕は、最高に折り合いが悪かったのだ。
プライドばかり高く、世間知らずで、寂しがりのくせに人をイライラさせる言動ばかりする。
しまいにはキャバクラが大好きで、しょっちゅう付き合わされていた。おごってもくれないのに。
正直いうと、おそらく入社1年目から見下していたと思う。
そもそも、大したやつじゃないくせに、人を評価して見下したがる僕の性格にこそ難があるだろう。
もしかすると、そんな内心も見透かされていたのかもしれない。とはいえ、同じ社内で上司にあたる彼とは、それまでは表面上は良好な関係であった。
きっと演じられていたはずだった。しかしきっかけとなる出来事は起こってしまった。
僕が当時の部下と飲みに行っていた時に、彼が突然押しかけてきて泥酔した挙げ句、部下を泣かせてしまったのだ。
ちなみに部下は女の子で、泣かされた理由は仕事のことならまだしも、完全にプライベート。
正直、聞くに堪えないことだったので、ここでは割愛する。あ、この部下と僕は別に特別な関係ではない。
いたって普通の上司と部下、ただ、かなりできる子で可愛がってはいたけども。
そして僕は、思わず手が出てしまった。なでてあげたとかではなく、ぶん殴ってしまった。短気は損気を体現する僕だった。
そのあともよくない。翌日にさすがに自分に非があると思ったのか、謝ってきた彼を無視して、その足で社長に退職願をたたきつけたのだ。
今思うとありえない、何も先のことを考えていない。結局、実務的問題ですぐに辞めることにはならなかったけども、その後3カ月で僕はこの会社をあとにする。
実際問題、その3カ月があったから転職活動ができたのだが。
そしてまたしても焦って、何も学ばずに決めた2社目。僕はさらに痛い目を見るのだった。
この記事の筆者
松澤 悠希(仮名)
1981年生まれの35歳。
大学卒業後、中小の編集プロダクションに就職する。
雑誌の編集長を務めるが、3年間の勤務ののち退職。
その後、広告業界へとシフトしていくものの、生来の自由気ままな性格が災いしてか、転職を重ねることとなる。
8度の転職を経て、自分に合っているのはフリーランスだと考え、2015年に独立。現在は、広告ディレクター・ライターとして、主に印刷物を手がける。
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