【第1回】女性である私の転職〜新卒、就職氷河期〜

体験者の情報
名前:小沼ちづるさん(仮名)
性別:女性
転職経験:10回以上
現在の年齢:35歳
転職時の年齢と前職:22~35歳

大学生活と新卒リクナビ就活

神戸外国語大学で4年間過ごした私の学生時代。親元離れて県外での学生生活は、しかし学問の面では少し退屈さを感じていました。

むしろ、本当は単科大学がいいとも思っていなかったように感じます。

私は一体、何しにここへ来たんだろう、と第一希望に入学を果たしながら不思議に思うような心の迷いを感じつつ、少人数の学生仲間と恋人との楽しい時間を励みに頑張りました。

思えば、自分の選択と自分軸のズレはこのころから、いや、むしろ子供時代以前に起因するようでした。

就職活動については、デスクトップパソコンが一家に一台あるかないかの時代。いわゆるリクナビエントリーからのスタートが最も多くありました。

得意科目でものを選ぶことが習慣化していた私は、また、それ以上に考え方や価値観の教育には触れてこなかったため、まずは専門の英語を使用し、また、海外と取引のある企業で絞り、就活に取り組みました。

好きなものを軸にして、香料や化粧品会社へも応募しましたが、主に考えたのは業務が海外関係である仕事でした。

つまり、靴やファッション、音楽やテレビなどの、 普段手にする好きなものと仕事は別物だ、と頭のどこかで区切りをつけた形での仕事への展望をベースに活動をしていた、ということになります。

外国語関係で絞るとそこには、商社、繊維、海運など、軒並み優良企業がつらなっていました。私は、一斉エントリーでとことん応募しました。

流れが変わった。ついに内定

自分では悪気のない、勝てそうな分野に絞った、大きな夢があるわけでもないように映る数々の応募は、面接までは進みはするものの、内定はあまりとれませんでした。

そこでふと、英会話学校へ応募。慌てて2通応募したり、電話で何とか面接をお願いしたりと、良くも悪くも、応募段階から、今までとは違う流れを感じていました。

結果、子供専門英会話学校の最終面接へ進むことができました。

本社面接後、結果、内定を得て合格。卒業後、3月中すぐにトレーニングを経て、就職がスタートしました。軽い試験レッスンも行われる本格的な現場主義。

厳しい、との前情報とは裏腹に、楽しい挑戦と張りのある緊張感に私のテンションは高く、ワクワクが隠せませんでした。

周りの同期は嫌だなぁ、と言っていて、私も同意しましたが、同時に新しい挑戦を心から楽しいと感じたのも事実でした。

自分のレッスンをビデオにとるなど、専門的にプロフェッショナルに磨きをかける2週間の研修を得て、無事、出身地である愛知県での就職を果たすことが出来ました。

国際色豊かな素晴らしい職場

勢い溢れる私と裏腹に、会社に関してよくない話も実際には耳にしました。「ここは、あまり人は長く勤めないからね」といったものです。

確かに、会社自体も夫婦経営者で少し狂信的、とまでは行かないが、社長のカリスマ性のようなご人格を前面に出したとも言えなくもない、古典的な考えや習慣が残った日系企業、と表現できなくもない側面を持つ組織でした。

また、学校と本部の仕事への対応の違いや経営システムなど、未解決に思われる部分も、私には目に付きました。

しかし、質の高い教育を提供できる環境で、肌と肌でぶつかり合う、本気の仕事であることには変わりはない。

私は与えられた環境を前向きにもとらえました。労働環境としてもタフで、もちろん週末は準備に追われます。就業時間は、朝こそ遅めだが、帰りは終電間近です。

スケールだけで見れば小さな学校かもしれないが、この良いか悪いかもわからない絞られ方は、しかし、のちの財産となり、また、ひそかに自分の中で、誇れる点ともなるのでした。

自費での教材づくり、トイレ掃除、子供のおむつ、教材づくり、そして外国人教師の受け入れ、など、フレキシブルな対応が求められる業務が多かったことを覚えています。

体を動かしながら、声をだしながら、順序立ててものごとを教えることは、大変自分に合っていたとも感じました。

しかし、何をかくそう、小さな町での小さな話。素晴らしい生徒、愛らしい子供たちに囲まれながらも、自分の未熟さに正面から対処できず、広がる人間関係に喜びを感じながらも、将来に不安を抱え出したのでした。

内面の未熟さを痛感したのは、伸び悩み出してからです。競り合うような人気商売的な側面もある職種で、技術力の高さやサービスの質の良さを誠実に提供したい、と願っていました。

しかし、悩む私は、変化の道を選ぶことになりました。

その決断のきっかけは、他ならぬ屈託無い生徒さまたちの、生き生きとした姿だったように思います。

海外に住みたい、海外メディアで働けたらいいな。

感じずにいた小さな夢見る心が、無邪気にはしゃぐ生徒たちの笑顔によって、どんどん突き動かされていったのでした。

退職、壁、別れ

退職は、職務内容や仕事環境だけが決め手となったわけではありませんでした。

広い世界で羽ばたきたいと願うに至ったには、外国人教師の方々とのトラブルも確かにありました。

まだ、当時の私自身は、人を見て、海外からの渡航者とわかるとどこの国の人だろう、と人の出身やルーツを気にしてしまう、日本人さながらな部分もありました。

幼い頃より海外からの先生や英会話教育に触れてきたため、耐性や資質があったのか、よく深入りしなくてもよい場面で下手に手助けしたものでした。

人には優しくしろ、下手に出なさい、だまされるほうがだますよりまし、という親の教育の成果かはたまたそれに甘んじた私への洗礼なのか、ホームシックになる先生、孤独とトラウマに苦しむ先生、様々な外国人教師の方々にも、自分なりにできることをすることで対応していました。

しかし自分目線のこの対応がようやく成長できるようになったのは、ごく最近の、ここから10年後くらいのことでした。

結局、道で出会ったアメリカ人の彼との結婚、渡米を考え、2年半で退職しました。

石にかじりついてでも3年、という仕事の世界で、しり切れとんぼ気味の終了とも言える結果とも言えるでしょう。

思いっきりその場で花を咲くことを考えたら、今でも3年はいた方がよかったかもしれない、と考えなくもありません。

結婚といっても、実際は話だけで、現実は二人で働きながらお金を貯めて、また数年後に共に生活を始めよう、というプランに落ち着きました。

新たな挑戦、ゼロからの再出発

彼の影響が大きく、世界はグローバルに広がり、海外青年協力隊にも応募しました。

職種は日本語教師だが、2年発展途上国で働けてお給料ももらえるならいいかもしれない、と考えたのです。

JICAへの応募、勉強、しかし、落選。自分の中の心のどこかに残った何かと、スピード感あふれる現実が、どんどん裂けて離れていった頃でした。

流されるままに生きるしかできないほど、自分が浮き足立っていたかもしれません。

しかし、同時に勤勉に働くことを厭わなかった私は、日本語や英語を教えるアルバイトもしながら、何とか食いつなぎ、夢を膨らませました。何もなかったが、幸せだった日々、と言えると思います。

小さなことでも、友人と大笑いして喜びを分かち合う毎日。羽目をはずした次の日に、夫となるかもしれない人と会い、また一層深い愛を堪能する。

日々の新しい出会いに胸をときめかせ、聞いたことのない話に自分を重ね、幸せを感じる日々でした。

海外からの来訪者の友人に多く恵まれ、生活レベルにとどまらず、人種、政治、物の見方、ライフスタイル、多くの刺激と学びを得ました。親は、「国内留学みたいで、素敵ね」と喜んでくれました。

ネイティブ並みを英語を話す娘を誇りに思ってくれているようでもありました。

大人になり、成長すると同時に、社会でひとつの会社で辛抱強く働き続けた父と意見があったりすると、少し得意げに、嬉しく感じました。

そうこうして、それまでの自分がそぎ落とされ、最高の幸せに包まれて新たな道へと進んだ私。

向こう見ず、の言葉どおり、ありのまま、無邪気な無計画でしたが、最近になって難しいと気づいた、今を生きる、という生き方は、できていたのかなあと思います。

これは、ただの転職ではなく、人生の作りかえとなりました。

昨今はやりの潜在意識改革などで取り入れる新しい考え方などを、私は早い段階からぐんぐん吸収し、すぐに理解し、自分のものにしました。

「フェイク」が好きではないので、絶対に本物でいること、壊せるものは本気で壊し、創れるものは本気で作りました。

突然絵を描いてみたり、ありとあらゆることを、興味のままに、経済的に体力的に可能な限り、挑戦しました。

一から作り上げる人生という、果てしない挑戦へと続く道、それは、すべてがゼロになって始めて目の前に開かれたのでした。

この記事の筆者

小沼ちづるさん(仮名)

転職歴は派遣も含めて10回以上、現在個人事業主としてビジネス展開。

業種は広告、マーケティング代理店、病気退職から英語系海外系事務派遣で生活。

本当の自分と向き合うことの大切さをみなさんにお伝えできればと思います。

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