【第2回】女性である私の転職~フリー、そして転職~

体験者の情報
名前:小沼ちづるさん(仮名)
性別:女性
転職経験:10回以上
現在の年齢:35歳
転職時の年齢と前職:22~35歳

ゼロからのスタート

私の転職は、一気に全てを失うところからスタートしました。とはいえ、キャリアをしっかり構築していきたい身としまして、多くのキャリア相談へも隙なく足を運びました。

例えば、JACリクルート。フリーターの世界に染まりそうな危機感を自分のどこかに抱えながら、今その時にある全てを履歴書に書き連ね、キャリアアドバイザーの話を聞きに行ったのでした。

このキャリアアドバイザーとの会話という行動だが、その後10年にわたり、大変に様々なキャリアアドバイザーに話を聞くこととなるのですが。

キャリアについてのアドバイス、それは、仕事そのもの、働くことと自己管理、自己実現などの、転職とは切っても切れないテーマの問題の奥深さ、また、際限のない広がりを感じさせるものでした。

ゼロの地点は、ある意味自由を手にした成功者の生活と同等に、無職の世界のただっぴろい、さばくのような限りない広がりを示していたと感じました。

当時、元同僚と市内に同居することになっていた私は、母が「国内にしてホームステイみたいな感じかしら?いいわねえ。」とのんきに表現した同居暮らしを営みながら、仕事探しを行っていました。

「やればできる」自信があった私は、危機感もなくただただ自分の可能性を探りに行ったのでした。

「やればできる」の根拠は、幼いころからのスポーツの記憶です。

人と比べてどうこうというより、例えば水泳部でも、何も考えずに練習をしていると、ポンッとレベルアップする日がくる。

「努力のコップの水があふれた」瞬間だ、と解釈した私は、何につけても、まず、進む、ことを必ず行うようにしていたと思います。

多国籍の交友関係の中で

海外からの来訪者との付き合いが多くなるにつれ、彼らと自分、および自分の周りとの差を強く感じるようになっていました。

特に強く感じたのは、彼ら、彼女らが己をよく知り、好きなことにかけて、また、楽しむことにかけて本当に秀でていることでした。

小さな島国、という自己認識が強い日本人にとって、戦後に繁栄した相対比較を軸とした教育体制は、あまりに互いのつながりや優越を意識しすぎて、皆が浮き足立つのだろう、と解釈しています。

広い土地でぽつんと考えることがない、小さな町で揉まれて育った私には、たとえそれが飲んだくれのヒッピーまがいな人だとしても、新鮮に、また生き生きと輝いて見えたものでした。

彼らは底なしの体力で、お酒も、度の高いものを好んでいました。

それはもしかして違法では?と思われるお酒も、じゃあ、それは脳にどのような刺激があって、自分がこう生きていきたい、と思う人生に対してどのような効果があると考えられるから飲むのだ、などのように、主体的に、そしてクリエイティブにものを考える友人に恵まれ、私はよくラウンジやバーでもふとよく考えさせられていました。

感銘するところも多く、のんびり楽しく飲むどころではなかったのだと思います。

ところで、私自身は、というと、頭の中のテーマが海外との差に集中し始めた時、学生時代に見た、BBCを思い出していました。

日本の天皇に対するデモの映像が、BBCと国内放送と表現が違ったことを鮮明に記憶していたのです。

当時、NHK衛星放送では、ロシア、フランス、アメリカ、イギリスと複数の国のニュースを放送していたので、私は好んで見ていました。

それらを自分の職にしたいなどとは間違っても思わなかった、いえ、思えなかったのですが…。

当時の華やかに広がる人間関係では、常軌を逸していると思えるほどの自己主張を垣間見ながら、情報操作、洗脳、支配、心理など、言葉やコミュニケーションがなせるダークな側面をも学び、語ることができました。

詳しい友人にも恵まれ、気を使うことなく、自分の真の意見をぶつけることができたのでした。

言語学を学び、その背景の哲学に興味を持っていた私にとって、実際の交友関係が左右される分、辛酸を舐めながらの深い学習期間でもありました。

子供時代との交差

子供の頃、空っぽになった心を埋めるようにぬいぐるみで遊んだことが多くありました。

その最中に、針金をコンセントに突っ込む、などの危険な遊びも行ってしまっていたのですが…。

私は自身の母親との絆に対し複雑な感情を持つ母親の元で生まれたので、十二分に愛おしく愛されて過ごしたという幸福な子供時代の記憶よりも、周りに囲まれながらも、ひとりぼっち、と思うことがよくありました。

ゼロ地点からの再出発時期に、さらに広がる飲んだくれの友人の和では、そんなお互いの子供時代の写真を見せ合ったりして、心の穴を埋め合いながら温かい交流がなされていました。とはいえ互いに20歳を超えた社会人。

飲んで語ったそばから、翌日は普通の人間に戻って、何事もなかったかのように振る舞ったりもしました。

それはどこか、いつでも受け入れてくれるぬいぐるみを必要とする自分の姿だったかもしれない、と今では考えます。

飲み友達とはいえ、そこから仕事を発展させたりしている人もいました。

ただ当時の私は、自分は本来飲んだくれではなく、きちんと折り目正しい人間だ、とどこか思っていて、自分の行動すべてを愛せないジレンマにとらわれ出していたのです。

例えば、人がだらしない姿、はしたない行動、などを嫌っていたのだが、そんな人間の区別などないこの世の中では、それは私があまりに未熟で自分自身の全てを見られない、というだけだったのかもしれません。

バーやレストラン、山籠りバイト

そうこうしながら、仕事の面では、生まれつき働いていることが好きなので、バーやレストラン、はたまた、長野県白馬村でのフリーター山籠りアルバイト、なども行いました。

自分では自由奔放にしながら、しかし、時折周りとの壁も感じました。

それは、おそらく置き去りにした心がある中で、すでにこの時にはそれを感じることができず、やりたいことと行動がちぐはぐしていたからだろうと考えられます。

これはつまり、それぞれがもしかしたら少しずつ間違いだったのかもしれません。

自分とは向いている方向がどこか違う人たちの中に入り、仲間という連帯感が持てない中、労働を行い、楽しいのは空いた時間の自転車やヨガを行うことでした。

普通、キャリアを捨ててフリーター生活ともなれば夢があると思いがちですが、心を置き去りにしていた私にとってはなんとも言えない勉強の日々だった。

もしかしてそれぞれの仕事先では、働くのを楽しむというより、優等生でいたかったのかもしれません。

自覚できない挫折と心の傷。今から考えるとそれは単なる挫折と、間違った処方箋だったように思います。

ぼろぼろの寂しい自分を理解せず、間違ったものを信じ、自分を傷つけるものを歓迎する、悪循環にはまりかけていました。

強いて言うなら、職を転々とする辛抱のない、役に立たない、向こう見ずでチリくずのような存在、それが私だったのです。

認識もしていないので、何が問題点かわからず、誰かに相談することもできない。

この世界には、自分の自由や幸せがあるのだと、本心からは認識できずにいて、いつも少し我慢していないといけないんだ、という思い込みもありました。

人は私と友達になりたい、ということすら、心のどこかで疑い、本心をだせずにいたときもありました。

本心を出したら、どこかからバチがあたる、とすら感じ、何かつまらないが、皆は楽しくしていて、私は人が嫌がる掃除などをしていよう、という罪悪感かコンプレックスのような思いが心にはびこっていた。

この思い込みも、その後の努力で払拭できたのだが、自由な行動が幸せを呼ぶわけではないという、もしかしてほかの人には当たり前の教訓を、しんしんと受けていた、と言えるかもしれません。

自分の醜さを目の当たりにしながら、それでもウェイトレスをしながらお客様と話すのは楽しかったですし、お客様や周りの方々にも「ユキちゃん」と可愛がっていただいて、それはそれは暖かく豊かな日々でした。

キャリア構築への道

キャリア構築をしたい私は、ようやく長く続いたフリーター生活に終止符を打ったのでした。

契約社員での、電話通訳、英語オペレーターの仕事に就き、得意の英語で万博への問い合わせに対応しました。

一歩前に進んで少し喜ぶ私だが、しかしまあ、それは実は何をかくそう、ただのテレアポの仕事でした。

自分の優越性を感じたいと醜くも心のどこそこで思っていた当時の私にとって、学力や容姿を生かすわけでもなく、外国籍の学生さんや主婦の方々と席をともにするこの仕事では、とてもストレスがたまり、不本意な就業ともなりました。

愛知万博という期間中のみの就業だったが、座っているのが辛いほどの数少ない英語電話を待つ、1日が長く感じる、簡単だがうつ病にでもなりそうなこの仕事。

達成感も満足もなにもないが、労働とはつまり、こういうものなのだと心底感じることができました。労働から対価以外の何かを得ようという考えそのものが、どこか汚れているのだろう、とすら思いました。

つまりそれは、好きではないが、やはりありがたい仕事のひとつではあったのでした。

華やかな転職活動

日々の労働はさておき、転職活動そのものはトントンと進んでいきました。

JACリクルートメントのみならず、リクナビ、派遣会社など、様々なキャリア相談を経て、時にはどこかで登録したウェブサイトを見たヘッドハンターから仕事の依頼がくることもありました。

内容が出身地の名古屋市内のラグジュアリー時計などで、名古屋市内で落ち着くことに対して前向きに考えられず、海外就職を夢見ていた私は、結局断ってしまったのですが、10年経った今、自分が時計好きと気付くと、人からの紹介やアドバイスは本当に大切だ、と痛感しています。

自分の欲しい部分をしっかり把握できないまま、たくさんの人に会い、それでも多くの企業を学びました。

それが私にできる唯一の方法でした。

時には、すでに勤続何年、昇進軌道に乗る友人や、市内での転職を考える友人などとも情報交換を行いました。

俗にいう、「転職って不安」「転職は孤独」というものも、当時の私にはありませんでした。

それは私の性格に恩恵するものだったかもしれません。

近所のおばさんやたばこ屋さんのおじさん、カフェのお姉さん、フレンドリーな私はたくさんの人とのつながりを感じたまま、この、転職という自分の戦いを、自宅やインターネットカフェで行っていました。

結局内定は数社にとどまりましたが、辞退なども含めると、的を絞れなかった分、かなり多岐にわたる会社とお会いすることができました。

ホテル、広告、服飾、貿易などリクナビのおかけで東京にも広がった就職活動を通じて、本当に様々な企業に出会ったのです。

親に払ってもらった新幹線代で東京・水道橋で深夜に面接を受けた時には、「あなたのような方に会えてよかった」とまで言っていただきました。

「やればできる」と信じて疑わない私は、ついに東京青山のPR会社での就職内定を得、面接での感触を信じ、私はすぐにその会社への就職を決定しました。

いざ上京に向けて、短期の派遣就業をしながら、あとは頑張るだけだ、と信じて疑いませんでした。

この記事の筆者

小沼ちづるさん(仮名)

転職歴は派遣も含めて10回以上、現在個人事業主としてビジネス展開。

業種は広告、マーケティング代理店、病気退職から英語系海外系事務派遣で生活。

本当の自分と向き合うことの大切さをみなさんにお伝えできればと思います。

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