【第7回】女性である私の転職~広告PR業界復帰~
- 体験者の情報
- 名前:小沼ちづるさん(仮名)
性別:女性
転職経験:10回以上
現在の年齢:35歳
転職時の年齢と前職:22~35歳
もがく日々
通翻訳秘書が終了し、私は引き続き英語案件の仕事を探しました。その時は、長期的な視点や将来計画をきちんともつことができず、何をしても具合が悪くなってしまっていました。
数多く応募するという従来の方法で、また、エクセルや翻訳などの、必要とされそうな技術を多く身につけてそれらをアピールすることで、難があるだろうと思われそうな、数多い転職歴からくる偏見をカバーできると思っていました。
自分自身を優しい目で見ることができなくなっていた当初は、寝るのも歩くのも辛かったのを覚えています。
特に幸せそうな恋愛シーン、たとえ芸能人でも華やかな成功など、自分の進む先へ押してくれそうな場面すら、いるだけで、肌に感じるだけで、かえって、自分自身が惨めで惨めでいつも泣いていました。
それはもうその時で7年は続いていた症状だったため、相談する相手もいませんでしたし、相談すれば、見下され、バカにされるのが目に見えていたと思ったので、誰にも言えませんでした。
自分でもよく理解できない症状や被害を繰り返していた私には、信頼できる相談相手のような友人はもういませんでした。
かわりに、友人関係ですら、サービスを提供しなければならないような強迫観念だけがつきまといました。
それでも、人の繋がりに感謝しなければならないのも、現状に納得のいかない私の心身には負担になりました。
しかし、自殺など考えず、ゴキブリの如く生き延びる自分の方が、格好つけてはた迷惑に死んで行くよりいいはずだ、と思いました。誰かが自分が死んだ後を掃除しなければならないからです。
大手広告代理店
自分がそれまで、悲しくも誇りに思えずにいた、祖母の姿も脳裏をよくよぎりました。
格好良く素敵な感じよりも、強く、しっかりした、周りから疎外されてもきちんとやるべきことを勤める、大変に立派な、歌や踊りの好きな人でした。実家の母には、生きることはつらいこと、とよく言われました。
そのような話が全て暗い感じがして、私はあまり好きになれなかった、というか、どのように惹かれていいのか、好きなのに嫌だ、のような変な感情を抱えていたのでした。
このころはまだ、 生きていることの素晴らしさを理解できなくて、それよりも、うまくできる、素晴らしく生きる、さもないと、私はダメだ、と凝り固まって考えていたのでした。
ところで、人との触れ合いもなく、肌寂しいばかりの私は次第に様々な病気症状の治療が、家計を圧迫するようになっていきました。
それであるから、特に次の職場への希望もなく、たまたま、またお声がけいただいたところにボロ雑巾のように顔合わせに伺いました。
兼業主婦の方が務められていた事務職で、淡々とした仕事が求められ、自分らしさをある意味殺さなければならない職場でした。
英語力を買われたとのことでしたし、また、大手での仕事のため、ありがたく引き受けました。
押し殺す自分らしさ、周りへの疑心暗鬼
外へ出て仕事がしたい、また、活発な仕事でしか成功していない自分にとって、その仕事は勉強のための仕事でした。
職務は望むものでなくとも、最初の転職で心に決めた、コミュニケーション関連職だったため、最先端のマーケティング、海外取引、広告クリエイティブ、メディアやイベント、全てを目で見て学ぶことができました。
ところが、自分の中の情熱が全く見えないコンディションの中、人よりよいサポートサービスを会社に提供しようと空回りする私。
どこかがずれたままだったので、事務員同士の横の連携もしづらいほどに、会話を組み立てることもできなく感じることすらありました。
スピリチュアルカウンセリングではオーラが切れている、と言われ、「治して」もらいました。
それにしても職場どうこうよりも、人の疲労感も拾い、疑心暗鬼にとらわれ、惨めでつらい気持ちがとれず、定時で帰る楽なはずの就業も、昼休みには産業医のベッドで休憩しなければ続かなかったのです。
この仕事が好きなのかなあ、携わるものが好きなのかなあ、考えてもわかりませんでした。ふとした部内の出来事か幻聴のようなもので、我を見失った瞬間がありました。何かが、私を動かしているような感覚に陥りました。
裏で何が起こっていたのかはわからないが、所属部署がなくなって、契約が終了したのでした。
芯の自分と繋がる、次の仕事へ
その頃、表沙汰の出来事とは裏腹に、スピリチュアルの世界観の学習も自分の時間で進んでいました。
芯の自分と繋がり、芯の自分を愛して生きていかないと、どんな仕事でどのような人と会っても、結局何も進まない、そう感じたからでした。
この当時で5〜6年ほど、内観する作業を続けてきた私が、最初にヨガに触れてからは10年以上が過ぎていました。
元々が冒険好きの私は、東京でも海外でもどこでも許されるなら生きて行くぞ、と心に誓っていました。
マーケティングが楽しいと感じていたのでその勉強も続けつつ、自分の心の整理、考え方パターン、言葉、神などを学習しました。
それは恐らく自分にとっては正しい生きる道だったのだと、今では思います。
寝ても覚めても、携帯電話やパソコンで調べては、物事の捉え方、反応の仕方などを学びました。
ヨガはやらなくなっていたが、代わりにジョギングは続けていました。
頭が壊れそうなくらい、何かの感情が自分の中に未消化であったことはわかっていました。
通常の「こんちくちょう、頑張るぞ」では、発散できない何か、があったのです。だかその分、学習に集中できました。
病んでしまった分、まだ、本当の意味では挫折も失敗も乗り越えられていなかったため、仕事に向けては、愛や情熱注ぐ働き方が難しく、技術を売ることしかできず、それゆえに、スキルを磨くことのみに注力しました。
通訳学校と通訳の仕事
また、このころ、私は通訳学校も通い出しました。
通訳がしたい、というわけではなく、翻訳よりは通訳の方が好きだと思う、という最低限の私の曖昧な考えがあったからなのですが、すでに技術の切り売りをしすぎていて、それしか考えられなくなっていたからです。
優しい両親は、「学習の場であれば、また友人ができるよ」とも言いました。
両親の援助なしでは通えなかったので、30歳を超えて両親にお金を払ってもらうことに、非常に恥ずかしさも覚えました。
しかし、このままでは使い物にならない自分。なんとか技術を磨いて、健康元気になって、ハキハキ楽しく働けるようになれば、またどこかで使ってもらえるかもしれない、そうしたら、うんとお返しをしよう、そんな風に考えました。
この時、まだ抜けていた肝心な部分、それは、自分が何をしたくて、どういう生き方をしたいか、という高い視点からの目標だったと思います。
しかしそこに頭を働かせることに苦痛が伴った当時の病んだ私は、とにかく目の前に開いた通翻訳技術の向上の機会に一生懸命に取り組みました。
ジョギングをしながら、英語ラジオを聴き、通訳のリテンションを行ったりしました。
センスではなく、トレーニングがものをいう世界と聞いて、ますます自分にもできるかもしれない、と思ったのでした。
それは、根底に、魂がどこかで深く傷ついた、「何もなしでは愛されない自分」が横たわっていたからでしょう。
トレーニングといえど、幻聴がたまにある身では進まないことも多くありました。結局、認定試験でも通訳秘書レベルと評される技術を得るにとどまりました。
しかし、それと、スピリチュアルな情報からの瞑想という健康法を進めるにつれて、目の前は明るくなり、新しいオファーもいただくことができました。今度は違うメディアエージェンシーでの仕事でした。
大手での職歴も一応ありますし、それ以上に、表舞台から降りてからの派遣就業中に溜め込んだ知識や幅広い経験も、自分にはあるのです。きっと次はなんとかなる、と希望を高く持ちました。
採用テストを受け、合格、すぐにスタートとなったのでした。
この記事の筆者
小沼ちづるさん(仮名)
転職歴は派遣も含めて10回以上、現在個人事業主としてビジネス展開。
業種は広告、マーケティング代理店、病気退職から英語系海外系事務派遣で生活。
本当の自分と向き合うことの大切さをみなさんにお伝えできればと思います。