【第3回】女性である私の転職~失敗、病気、問題の浮き彫り~

体験者の情報
名前:小沼ちづるさん(仮名)
性別:女性
転職経験:10回以上
現在の年齢:35歳
転職時の年齢と前職:22~35歳

新しく入ったPR会社

新卒からの退職後、小さな仕事を転々とした後に転職が決まった私は、意気揚々とインターネットで不動産会社を探し、東京での住居を決定しました。

クリスマス前後が、ちょうど会社への初出勤の日となりました。

それまでBtoCでキャリアを積んできた私にとっては、この、新しい会社での、企業への新規営業を含むメディアPRの仕事は、身が引き締まる思いであると同時に、いわゆる「楽しめる仕事」、「わくわくする仕事」、というものがどういうものなのかを体現する最高の職でもありました。

体力にも自信があったため、巷にいう“タフな仕事”であるこの転職でしたが、不安もあまりありませんでした。

それまで、英語での交友関係において、”You have got something!”(「君には何か(才能のような何か)があるよ!」という褒め言葉を多くもらい、お調子づいていた私には、目の前に広がる新しいメディアの世界に対して、それをあまり恐れ多いものとしては捉えず、われながら素晴らしい転職だ、と感動していたほどだったのです。

まさに浮き足立っていた、といえたかもしれません。新規でジャーナリストへPRをかける仕事は活動的で、おすすめ好きな私にはうってつけで、大都市で迷子になりそうになりながらも、ハリのある日々を過ごすことができました。

ところが、技術的にも貢献できるものが英語力くらいの未経験者な私は市場競争力が低く、覚えることやこなす仕事の多さに徐々に圧倒されていました。

今思うと、複数の案件や契約をサクサクとこなせるほどのクリアな心身も、ありませんでした。

集中がとぎれ、メランコリーな気分になることもあり、わくわくするはずの仕事の手を休めて、ひとりぼーっと夕日を見たりもしました。

過去に何かを忘れたのでしょうか、それは今考えると、全くもって自分らしからぬ姿なのですが…。

バラバラな心身

実際に仕事、というものに取り掛かる、ということは、その会社では、企画立案、メディアへのプロモーション、コールドコーリング(新規獲得への電話アプローチ)という業務を指します。

大学時代に妙な営業電話アルバイトも経験していた私は、新規営業的なアプローチを数多くこなすことに対する耐性があり、メンタルを保つことができたため、浮き足立ってはいたものの、それなりにきちんと職務を果たすことができました。

しかし、天然ボケではすまないミスもつきまとったことも事実でした。

それは綿密でタイムリーかつ正確さが当たり前に求められる世界において、致命傷でした。

ある日、社長が渡米するとのことで、現地資料を作成することとなり、普段ない社長の仕事、また、自分の特性を活かせる嬉しさから、インターネットで調べてなんとかそれらしいものを作ったことがありました。

英会話力も活かすことができましたし、粗削りだが、それでもダイナミックな仕事を通じて世の中に貢献できる喜びは他に変え難かったと思います。

また、それを大げさに喜び誇るほど、それまでの生活からの疲れもたまっていたのかもしれません。

社長がアメリカ出張から帰ると、「おまえ資料間違ってたよ」と早速、社長本人からの怒りの鉄拳が頭上から降ってきました。完全に恥ずかしかったし、信じられませんでした。

また、フリーター生活からの自我が傷ついたままの私は、周りからの(ありもしない)評価の視線なども気にして、きちんと謝るというよりは何やら謝り、別の仕事で名誉挽回しようと踏ん張っていました。

周りは、というと、転職組の私に対して、東京新卒の同僚が多く、特に彼らは礼儀正しく、私から見ると関東らしい、謙虚で建前の多い、つん、としながらまろやかなアティチュードを身にまとっていて、時に上手に私を褒め称えたりもしていました。

それは普段行動を共にする年下の新卒入社組も同様で、自我が傷つき人並み以上にメランコリーになっていた私の足元がグラグラする理由にもなっていました。

迷走する魂

社長から怒られて以降、ひとりランチにも行くようになりました。

真面目にしっかり仕事をする自信のあった私には、気遣いが必要なランチよりもよいだろうと判断したからです。

しかしこれはかなり間違っており、また、周りとのズレを増やすもとともなりました。

その頃から、外界への反応がおかしくなっていきました、例えば優しくしたい、と思って近づく人からの好意も、上手に素直に受け取ることができなくなっていました。

ふらふらしながらなんとかウワベを取り繕うとすると、遅刻したり、ミスをしてりしました。

からだはとにかく疲れて、出勤も不動産屋さんの車で送ってもらったりするなど、数ヶ月の勤務で、よもや何もできなくなっていました。

どこかで何かが分裂していたのです。強がって憎まれ口を言うしかできなかった地元での交友関係が脳裏に浮かぶことも多くありました。

何が怖いのかわからないが、頭の中で、自分は愛されている、必要とされている、という幻想ストーリーのようなものが、時折頭に流れるようにもなった。

新しい同僚仲間との関係構築以前の問題だったかもしれません。

ましてや、クライアントやメディアとの関係構築など夢のまた夢でした。

たった3カ月で手放した就職

その日、朝早く目が覚めたが、体が動きませんでした。どのように手足を動かすのかが、わからなかったのでした。

刻々と過ぎていく時間。その時には、何回も十分前後の遅刻を繰り返すようになっていました。

本来の私は、用意周到、時間に遅れるタイプではありませんでした。小学校も、明日のお洋服の準備を枕元にたたむのが好きでした。

母親はお友達との約束によく慌てて遅刻していたので、余計に私はきちんとする癖がありました。

親子だから似る?そうではない、それは私は血筋という名の間違った支配だとすら思ったりしています。

そもそも、そんな単純に性格や習性が決まるものか、と思います。

しかし、動けない私には、私の体を心配する友人の幻想を頭の中で何度も放映するしかありませんでした。

自分を惨めに思う気はありませんが、20台半ばになってこのような精神状態になって人生をやり直すことになる、これすらも、辛い、と感じました。

辛いのに、誰も助けてくれない、そのように感じたのでした。

今思うと、よくある苦労自慢をたくさん聞いてきた私の中の対抗心が、自分にもそのような同様の辛い苦労が必要だと判断し、作り上げた事象なのではないか、とすら思うほど、その苦しみは、どこか満たされない自己顕示欲の歪んだ表れではないかと自分では考えています。

それほどに、意味のない遅刻と病気症状だったのでした。

とはいえ、本人としては体がしばらく動かず、さらに切れるほどに感じる腹痛に襲われました。一旦会社に電話し、欠勤連絡をしました。

病院へ行くと、診断書には過敏性症候群と書かれました。医師には地元に帰れ、と言われてしまいました。

そのまま、診断書を会社に提出しました。会社は1カ月休んで、それからまた復帰してもいい、とまで言ってくれました。

しかし、数日して私は退職届を書きました。自分では見えない何かが、進んではダメ、と言っている気がしました。

悔しかったのか、それも感じられなかったのか、冷静な判断なのか、当時は深く考えることもままなりませんでした。

休養と復帰

退職届を提出した時、心の奥で何かが壊れた音がしました。恐ろしい恐怖感を一瞬感じたのでした。

何かに怒られているのか、何かが背筋を凍らせたのでした。

不運の始まりだったかもしれないし、それは言葉にある「試用期間にて終了」では表せられない、恐ろしい喪失感とショックだったのです。

しかし体が疲労困憊しているのは事実。

フリーター時代に山籠りをしたアルバイト先へと滞在を依頼、すぐに受け入れてくれました。

宿のおばちゃんは、「あんた、東京の水があわないんじゃない」と言っていたのを覚えています。

おばちゃんは長野の田舎者だからねっ、と心の中で思ったりしました。

私は大都市の機動力はなくとも、人に囲まれた都会生活には慣れ親しんでいたからです。

また、私は父方の先祖が江戸にずっといたらしく、父方の親戚もいて、普通よりも“東京”の怖さを感じることもありませんでした。

しかし、それと同時に、“東京”への夢も欠けていたかもしれません。

一方で、療養しながら、自分の失敗を他人のせいにしたがる自分の心にも苦しみました。

マイペースで現実主義の私は、しっかり世界と健康的につながりたい、と思っていたのです。

退職しておきながら、元同僚にメールを出したりもしました。

感覚としては、病人らしき自己批判、低い自己尊重、自分がどう見られるかなど考えられない、低次元に生きていたと思います。

ボロボロな自分のどこかが、彼らに何かを訴えていたような感じでした。

そしてこの「私には何もない、ぼろぼろでかわいそう」と主観的にとらえられるような状況を、この後何度もくりかえすのでした。

この記事の筆者

小沼ちづるさん(仮名)

転職歴は派遣も含めて10回以上、現在個人事業主としてビジネス展開。

業種は広告、マーケティング代理店、病気退職から英語系海外系事務派遣で生活。

本当の自分と向き合うことの大切さをみなさんにお伝えできればと思います。

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