【第6回】女性である私の転職~原点、通翻訳秘書~
- 体験者の情報
- 名前:小沼ちづるさん(仮名)
性別:女性
転職経験:10回以上
現在の年齢:35歳
転職時の年齢と前職:22~35歳
霊的支配
最近ですが、母親を殺害してしまった息子が無罪判決を受けたというニュースがありました。その方の動機は金銭と介護の疲れ、というものでした。
賛否両論あったと報道されたと思いますが、しかしそれは私にとって納得がいくものでした。
核家族と戦後教育、取り残される心と流される生活、これらは様々な悲劇を社会に残していきました。
私の母親は、愛情深く、素晴らしい母親であると思っているのですが、失礼ながら、愛情を私に注ぐよりは自分が家族のヒロインだった時も多く記憶しています、というか、そのように幼い私には感じたのでした。
よって私は物心ついた頃から、母親という人は本心で甘える相手ではなく、気分よくそこにいて頂くように、サポートをしてさしあげる相手、と捉えていたような変な部分がありました。
世話をしてくれた人であるから全くもって文句を言える立場にはないのですがが、人と人なので、このような関係性がある以上、近づき過ぎない方が身のためかなあ、とも思いました。
つまり、甘えすぎようにも、甘えを許さない変な関係があったのでした。おかしくも、母親より、不得手で弱くバカになるべきだ、とすら思ったこともありました。
母は、権力主義者なので、私を利用できるとあれば、とぼけた顔で、愛という名のもとに際限なく踏んづけるのだ、と不幸の淵にいたときは感じました。
病んでいたのでしょう、母親もまた、何かの被害者かもしれない、とも思いました。
成長したいので、愛情欲しさから深入りするのは止めて、私は母親のドラマからは身を守ることにしました。
人間関係
そうして初めて、人として関係できるかもしれないからです。この認識は間違っているかもしれませんが、でも、相手を愛するがゆえに様々な対策を講じたりすることも、良い関係構築には必要なんだと、母を通じて学ぶことができました。
殺伐とした家族関係は、戦後教育と白人崇拝の結果だろうか、などと妙ちくりんな考えを巡らせもしました。
これまでの国際教育国際ビジネスで、すっかりアジア人としては被害感情と僻み根性に打ちのめされていました。
気づくと、誰かのおかげ、と大げさに恩を感じなければならない社会にもおかしさを感じました。
人は人を否定するとその人が背負ってきた苦労と同じものをぶつけられる、そんな風にも感じていました。
親を否定すれば、彼らの苦労が自分のその悪い考えを改めるまで続くのでしょうか。
もちろんそうと決まった限りではないでしょうが、人は誰かと出会った時点で、そこから学べる成長を得る権利があり、そこから成長したいと執着するあまり、そうなるのかも知れないです。
自分の考えがすべて間違っているとすればそれはそれで幸せかもしれないのですが、歪んだ支配と言えど、それをありがたいと受け取る日本人。
ひっくり返して見れば、上がったもん勝ちのような、退屈な制度社会に欧米文化がうわべだけ可愛らしく取り付けられた張りぼてのような社会。
苦労とは馬鹿らしいものだ、もっとこれからは知性を使わないといけない、破るべき親の壁が見えてから、逆に自分のアイデンティティーが顔を出し始めました。
親の壁を壊すのは子の生きる力だから、その反抗心にも自信をもちました。自分の、嫌いながらも強い親への感情にも、自信があったからです。
もっと強くなろう、そう思いました。脅威や抑圧が、よりよい貢献のチャンスになるように。
きっともっと高い次元で見れば、ひょいっと誰もが理解し関係し仲良くなれるのかもしれないのです。
十年後には、今の私の悩みは非常にばかばかしいのかもしれないのです。
原点・通翻訳秘書職
ひどい精神状態ではあるが、心療内科でも働くことに制限はなかったため、結局ありとあらゆる人材、派遣会社に会い、登録し、キャリアコンサルティングを受け続けました。
複数の転職歴と多くの派遣歴により、また、病院通いで一人暮らしとあれば、よい仕事は紹介してもらえませんでした。
しかし、表面にある部分以外に燃えるものを持っていた私にとっては、同時に巷にいういい仕事が本当に良い仕事である、とはもう思いませんでした。
自分の中の未消化で不確かな部分を、仕事探しのプロセスが見せてくれていたのです。
自己卑下が強く、自分のあら探しが止まらなかった当時の私は、技術力以外に自分の長所がわかりませんでした。
いわゆる、自己愛の不足、と言うのだ、と後から学びました。
自分を慈しみ大切にし、きちんと管理した上で、自分が提供できる素晴らしいものを提供する、それが仕事であるならば、私はその仕事探しの第一段階で失格だったのでしょう。
しかし何はともあれ仕事が必要で、働くことが自分の生活資金に多大に影響し続けてきた庶民スタイルの私は、何でもいいから頑張る、という方法で、この輝かしいまでの、通翻訳秘書というタイトル付き派遣ワークを手に入れました。
勝因はどこまでもガッツでした。
適職との出会いまで
当時自分に見出したのは、機動力、コミュニケーション能力と国際性でした。
実家療養では、苦しい中で、本当に好きなことは何かを探しました。人は雑音があるとより創造性が高まるといいます。
雪山でも、曇り空の方が、事故が少ないものでした。結局、私はデザイン性の高いものやファッション、アートなどが好きだ、と、その療養中にわかったのでした。そうすると、バイリンガル秘書時代の幸せの意味がわかります。
美しいものを作るのでなければ、美しい空間にいたいのです。数々のインターネット占いも試みました。
私はペルシャ猫でしたので、異様に空間にストレスを感じることも多く、生きる為に良い環境を必要とする体質の私は、思えば派遣でも確かに十分幸せだったはずなのです。
文句を言ったり、コロコロ仕事を変えることもないようにも思えました。反省点としては、当時は技術力も足りなかったので、再び勉強をしました。
そして、一人暮らしの家の中も、徹底的に管理しました。
郵便物、電気ガス水道代、資格書類など、全てをきちんと収納し、実家にある昔のものも整理しました。曖昧な知識ではあるが、流行りの風水も考えました。
しかしあれこれしても、肝心な部分が抜けたままの、せっかく見つけたアートやファッションなどの「好きなもの」を仕事に重ねられないままの、生きるための仕事であるこの就業。
それでも、仕事にありつけて、また、重宝して頂き、渡米して会議にも参加することが出来て、全く光栄でした。
結局、 人は1人ではなく、必ず、共に戦い生きる仲間がいるものだ、そんなこともしみじみ感じることができました。
3.11そして派遣終了
相関関係があるとは思えないが、ちょうど3.11東北大地震の日がボストン滞在日でした。帰国後、国内は地震の話題で持ちきりでした。
皆が言う、地震の怖さを体感していない私は、現実感がなく、ジムのランニングマシーンでニュースを見ても、あまりの被害の残酷さと凄まじさに落ち込んで泣いてしまっていました。
しかし当時、その数ヶ月間決まったこの通翻訳秘書の入社日は2011年1月11日、と演技の良い並びだったため、数字のぞろ目の意味をGoogle検索しました。
それをきっかけに知った、スピリチャルなエンジェルナンバーという数字を通しての天使からのメッセージの読み方を学んでおり、半信半疑にぞろ目をたくさん目にするたびに、その意味を調べては、信じて生活に生かしていました。
英国在住経験のある友人の奥様からも、何も吹っ切れずに前に進めなかった際にスピリチャルカウンセリングをきっかけに前進し、人生の大きな門出を迎えたと聞き、余計にそれは何かを調べていたものです。
そんな最中であるので、地震や災害のショックへの女性らしいケア情報にもたまたま恵まれて、スピリチャルカウンセリングから派生してクンダリーニヨガやエンジェルナンバー、スピリチュアルサービスの携帯サイトなど、様々なツールとサービスにより、再起を目指すメンタルを保つことができました。
辛い思いに慣れていた私でも、契約が終わり退職となることを言い渡された際、指導顧問でプロジェクトについてくださった大御所の大先輩や分け隔てなく仲良くしてくれた同僚が、惜しんでくださり、このような形ですまない、と励ましてくださいました。
私でも、このように、人が私の正義ために尽力を尽くそうとしてくださるのか、と、当時の私は大変にありがたく思いました。
この原点での就業、渡米、災害、そして退職。その中で、その顧問の方との出会いは、私の視野を広げる大きなきっかけとなった。
傍目で見れば、あまり良い就業環境でないかもしれませんが、四角く硬くカチンカチンに物事を考えていた私にとって、大きな翼を持ったその大先輩、また、一緒に働いてくれた方々、力になってくれたり気持ちを汲んでくれたりした方々、との出会いに恵まれてました。
また、周りと比べると、契約社員、派遣社員、といった形の、ヒエラルキーの一番下、と社員IDで色分けされることもあって肩身が狭く感じる部分のあるこの仕事ですが、何もできない失業を経験した私には、宝ものの仕事でした。
結局、プロジェクト状況により、英語対応係の私たちは全員いなくなりました。
この記事の筆者
小沼ちづるさん(仮名)
転職歴は派遣も含めて10回以上、現在個人事業主としてビジネス展開。
業種は広告、マーケティング代理店、病気退職から英語系海外系事務派遣で生活。
本当の自分と向き合うことの大切さをみなさんにお伝えできればと思います。