【第1回】消耗品・雑貨業界を渡り歩いた20年の転職記~新卒で入社した外資系会社でまさかのリストラ~
理想のブランドを持った会社へ入社
私は大学時代マスコミ論を専攻していたため、就職の第一志望はテレビ局や新聞社などのマスメディア関係を目指していました。
しかしマスメディア関係はハードルが高く、またコネもかなりものをいう業界らしく、その志望はかないませんでした。
第二志望としてはアパレル産業などのファッション業界を目指しておりました。
当時売り手市場と言われていた就職戦線でしたが、私の場合はなかなか決まらず、最終的に外資系雑貨メーカーにもぐりこむことができました。
新卒で入社したその会社は、大手ではありませんが世間では割と名の知られたメーカーでした。
全盛期は私の入社する少し前のことになります。実は私は本社ではなく、そのイギリス本国資本100%の子会社に採用されたのです。
世間の知名度に比べ、かなり小さい規模の会社だなあと思いました。売上的には100億近くある会社だったのですが、全社員合わせても100人足らずの規模でした。
もともと好きなブランドを抱えている会社でしたし、今から考えればこの会社には底意地の悪い人もおらず、いい会社だったと思います。
初任給はそれほど高くはありませんでしたが、振り返ればこの会社が一番良かったような気もします。
まあ当時は新卒だったので比較する会社がなく、何でも受け入れられたのかもしれません。
さて、一時は一世を風靡した商品を持っていたこの会社は徐々に売上がじり貧になってきます。
それでも50億近くはあったのですが、ほぼ全盛期の半分の売上まで下がってしまいます。
そしてこの会社は社名を変更するとともに、リストラを敢行しました。社会人初体験の第一次リストラの始まりです。
そしてリストラへ
リストラと言っても指名解雇のようなことはなく、一見、人によってまちまちの配置転換のように見えました。
ある人は本社へ移動になり、ある人は本社からうちの子会社に移動になり、ある人は新規事業部への移動という形をとり、解雇という形式はほとんどありませんでした。
しかし間もなくして本社へ栄転したと見られた人は辞めざるを得ない状況になったようです。これが経営陣のうまいやり方でした。
内情詳しくは聞けませんでしたが、結局はいられなくなったようです。
最終的に私の会社の社員数は30名ほどになりました。
社員数が減ったからと言って仕事量が減るわけではありません。
当時まだ若手だった私にも仕事はバンバン回ってくるようになりました。
それまでは先輩社員やベテランの仕事だったことも振られるようになります。
中でもしんどかったのは出張でした。この会社は東京と関西にしかオフィスがなく、静岡や東北は出張ベースなのです。
それまではベテランの方が毎週地方に週3~4泊で出張に行き、営業基盤を維持してきたのですが、それが私に回ってきたのです。
独身だったから出来たことですが、毎週3泊の出張、ホテル暮らしはかなり厳しいものがあります。1日200キロくらい車で走るのはザラでした。
しかもそれまでは長いことベテランが通っていたのに急に新参者が来るわけですから、取引先も最初のうちはあまりいい顔をしてくれませんでした。
そしてやっと地方にもずいぶん馴染んできたかなという頃、私に転勤の話が持ち上がります。
そして神戸へ
関西支社へ転勤しなさい、という辞令が私に下りました。私からすれば青天の霹靂でしたが、当時若手の独身が私しかいなかったためだと冷静に考えたら分かりました。
後輩はいましたが、すでに結婚しており、家族ごと転勤させたり単身赴任手当のことを考えたら独身の私に白羽の矢を立てるのが一番簡単だったのでしょう。
しかも実は私は関西の大学を卒業しています。会社側からしたらまったくもって適任者に見えたに違いありません。
結局多少ごねてはみたものの、転勤辞令は覆ることはなく、私は関西支社に転勤することと相成りました。
転勤にあたっての条件としては「係長に昇格」「家賃補助あり」「転勤に係る費用負担有り」と割といい条件ではありました。
私は地方の出身なので東京に住んでいても家賃がかかるわけですが、関西に行って家賃補助を出してもらえるということは事実上の可処分所得のアップです。
実はこのおかげでカツカツで生活していた私は、多少の貯金もできるようになりました。
しかし「係長に昇格」という条件は守られませんでした。この理由は後述させていただきます。
スイートホーム大阪
関西支社は本社と子会社の両方の支社を兼ねており、15人くらいの社員数でした。
東京と違って関西支社はゆったりとした空気が流れていました。
残業もほとんどなく、8時くらいまでオフィスで仕事をしていると「おっ、残業か。がんばるねえ」と声をかけてくれたりしました。
特に本社扱いの方はのんびりした空気感を持っている人が多かったです。
本社採用の人は全盛期の勢いのある頃を知っているのであまりガツガツした感じがありません。
本社扱いの女性社員の先輩に聞いたところ
「全盛期の頃なんかあたしたち、下に置かれたことがなかったわよ。営業するどころか客が向こうから寄ってくるんだから」
だそうです。うらやましい限りでした。また本社は特に女性向け商品が多かったので当たりの柔らかい人が多かったのでしょう。
関西の人は人懐っこいというかおおらかな方が多く、「東京者」(実際には地方出身者ですが)の私を実に優しく受け入れてくれました。
ただ、関西弁だけは上手く話すことができず、5年たってもタクシーに乗ると「お客さん、関西の人じゃないね」と言われました。
その度に、「もう3年も住んでるんだよ。関西人じゃないから東京に帰りたくてしょうがねえよ」と心の中でツッコんでいました。
しかし5年目くらいからネイティブにはかないませんが、結構流暢な関西弁が喋れるようになりました。
東京の人が聞いたら関西人だと思う程度には上達しました。
そして合併へ
第一次リストラの後、そして私に転勤話が持ち上がった頃から噂されていたのですが、いよいよ私の在籍している子会社と本社が合併することになりました。
この動きに本社子会社一同騒然となりました。再度のリストラの嵐になることは間違いありません。
何しろイギリス本国からリストラのための外人社長まで送り込まれてきたからです。
おそらくターゲットになるのは子会社の自分たちだとみんな戦々恐々としていました。
しかし実際にターゲットになったのは本社に長いこといる年配の方々でした。
後でわかることですが、本社と子会社では給与体系がまったく違い、全盛期だったころの本社社員さんはかなりの高給取りが多かったようです。
合併に伴ってもめたのは「給与体系」と「肩書」です。
子会社が本社に吸収合併される形になるわけですが、「子会社の管理職」をそのまま「本社の管理職」にしていいものかどうかという議論がかなりなされたようです。
例えば子会社の課長と本社の課長は給与にもかなり違いがあるわけです。
それをそのまま本社の管理職にしてしまうとまた本社の人件費が上がってしまうということになるわけです。
また、課長級になると年齢もみんなそこそこいっているので、降格などということになれば面白いはずがありません。
この解決方法としては、「肩書」はそのままにして、給与体系も子会社の給与体系のまま、という結論で解決を見たようです。
実は私が係長になれなかったのも、ここに原因がありました。本社には「係長」という肩書きがなかったのです。
私の一人のためにそんな職責を作るわけもなく、私は平社員のままということになりました。
実際には「主任」ではあったのですが、本社には主任という肩書きもなかったので、私の名刺からは肩書きがなくなりました。
いろんな紆余曲折を経て、私は目出度く本社社員になることが出来たわけです。
本社社員になってから
合併に伴って、私は、というか子会社の社員は今までの仕事プラス、本社の仕事もすることになります。
もちろん元本社の社員も子会社の仕事をすることになります。
しかし取引先も違えば流通も違う仕事だったので、これはかなりの混乱を招きました。
両者慣れない仕事でトラブルが起こり、事業があまりうまくいかなくなってしまったのです。
1年ほどして事業部制を引き、元本社の仕事は第1事業部、元子会社の仕事は第2事業部という形にしてそれぞれ元の社員がその業務に就き、落ち着きを見ました。
この頃、当人はリストラされた訳ではなかったのですが、私を関西支社に飛ばした部長が会社を辞めてしまいました。
部長が辞める前に東京に戻してくれとお願いしたのですが、結局かなうことはありませんでした。
その後私はこの会社で東京に戻ることはできませんでした。
飛ばしたんならせめて戻してから辞めろと思うのは自然なことだと思っておりますが、結局10年以上私は関西にいることになります。
まさかの日本事業撤退
そして合併も落ち着いた頃、今度は最悪の事態が起こりました。
ある日、管理職は全員東京本社集合、会議内容は当日まで非公表、管理職以外は全員オフィスにて待機、といういかにもよろしくない業務命令が下りました。
「またリストラか?それにしても今回は仰々しいなあ」などと騒いではおりましたが、まさかの出来事が起こってしまいました。
会議が終わったと思われる午後イチに本社へ行った課長から携帯に着信。
一言目は「落ち着いて聞きや」でした。いまだにその一言を忘れることが出来ません。
会議で発表された内容は私のいる事業部の閉鎖です。
正確に言うと、イギリス本国がその事業から撤退するため日本からも事業撤退、それに伴って事業部は閉鎖ということになりました。
事業部員はほぼ全員解雇という形になりました。これはショックでした。
いままでのリストラはなんとか逃れてきましたが、今度は事業部ごと閉鎖なので逃げようもありません。
何しろ事業がなくなってしまうのですから会社としても余分な人を雇っているわけにいかないのでしょう。
しかし、外資はドライなものです。広げるときはどんどん広げるが目がないとわかったら即撤退というやり方です。
外資系の経営論をまざまざと見せつけられました。
解雇にあたっては今考えればかなり手厚くしてもらいました。
その頃は一方的に解雇され、放り出されるという怒りで一杯でしたが、オフィスに転職のカウンセラーも雇ってくれたりエージェントを紹介してくれたりしました。
もちろん退職にあたっては退職金の上乗せもありました。
そして次のステージへ
途方に暮れた私はもちろんエージェントに登録し、知り合いにも転職先を当たってみましたが、そうそう都合よく転職先が転がっているわけもありません。
当時はまだリクナビやマイナビのような転職サイトもありませんでしたから、今のように日々ネットで職を探すなどということはできません。
エージェントや知り合いに頼んで、案件を待っているだけという状態です。これはかなりつらいです。
転職サイトを見て、
「贅沢言わなければ何かの仕事はあるもんだ」
などと気を休めることもできないのです。
退職日までに仕事が決まらなかったらどうしようという恐怖感で一杯でした。
夜中にうなされて目が覚めることもしばしばでした。
そしてある日、私が入社してから3年ほどで辞めてしまった先輩から一本の電話が入ります。
「聞いたよ。お前んとこ大変らしいな」
これが次のステップへ進む大きな架け橋の電話だったのです。
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