【第2回】消耗品・雑貨業界を渡り歩いた20年の転職記~知り合いのつてで転職。この会社はよかったのですが。。。~
今回の記事の目次
転職エージェントとの戦い
いくつかエージェントに登録しました。外資系の会社なので外資に強いという転職エージェントにも登録しました。
外資系に強いということは外国語の能力が期待されるということです。
私は残念ながらこの会社で英語を使う必要がなかったのでまったく喋ることができませんでした。
マネージャー以外、本国とやり取りする必要がなかったのです。
転職エージェントとは面談をし、ヒアリングでいろいろ聞かれたりしますが、ここで値踏みをされるわけです。
「この人は売れる」と思ったらいろいろ案件を紹介してもらえますが、売れないと判断されると結構ほったらかし状態になります。
やはり聞かれるのは「何ができるか」という事と、「英語の能力」が多かったです。
「外資系がお長いので英語はかなりいけるんですか?」
「いえほとんど出来ません」
「出来ないといってもいろいろありますよね。どれくらいいけるんですか?」
「スピーキングもヒアリングもメールのやり取りも今の会社では英語を使うことはありませんでした」
とはっきり言ってエージェントの担当さんが肩を落としたこともあります。
また私は当時「アカウントマネージャー」という肩書きを持っていました。これ、実は営業は全員その肩書きなのです。なので、
「マネージャーさんですか。管理職の経験がおありなんですね」
「いえそれはただの営業という意味です」
といってまたエージェントをがっかりさせたこともあります。
転職のための武器
さて、転職するにあたって何か能力を身につけたいと思った私は、英会話学校に通うことにしました。
外資系に勤めている限り英語が出来ると思われることが必至と考えたのです。
そしてビジネス英語まではともかく、別の外資企業に入った際にある程度は困らないようにしておきたいと思ったのです。
もともと私は英語は嫌いではなく、大学受験のときに外国語学部英語学科を合格したこともあります。
受験当時は新聞と雑誌以外なら大概の英語は読めました。しかしそんな英語力はとうの昔に消えてしまっていたのです。
英会話学校はマンツーマン指導で、学校内ではまったく日本語を話さないというところを選びました。
頭を英語漬けにしないと短期では身につかないと思ったのです。
40時間ほどのレッスンでしたが、これが後で役に立つことになります。
一番よかったのは外人に対する恐怖心が消えたことです。
会話なんてほんとに中学生程度の英単語を覚えていれば成り立つもの。
後は度胸だということがわかりました。
外資系のエージェントに登録して少したってから2.3回英語で電話がかかってきました。
これは相手が外人で日本語がしゃべれないケースもありますが、私の英語力を試しているのだと考えられます。
英会話学校に通った甲斐があるというものです。その頃私は相手が何を言っているか大体わかるようになっていました。
ある電話
さて、ある日私のいる会社を辞めた先輩から電話がかかってきました。
「聞いたよ。お前んとこ大変らしいな」
「いやもう大変なんてもんじゃないですよ。先輩は先に辞めて正解でしたね」
「俺、今別の雑貨メーカーにいるんだけど、来るか?」
まさに救いの神からの電話でした。話を聞くとやはり外資系の雑貨メーカーで、日本法人を立ち上げたばかりとのこと。一も二もなく飛びつきました。
同じ業界で、今のキャリアが活かせるし、先輩もいる。そんないい転職先は早々あるものではありません。
よく聞くと私を大阪に飛ばした部長もその会社にいるとのこと。
人間の縁ってありがたいというか不思議なものです。
そして私はその新しい会社に応募することになりました。
社長面接
お誘いいただいて、すぐ社長面接になりました。社長はもちろん外人。
マーケティング兼通訳の人を連れて関西まで来てくれました。
実はこの社長、私のいる会社で以前副社長をしていた人なのです。聞いてはいましたがやはり驚きです。
「Long time no see」英会話学校に通ったのがここで役立ちます。
「ヒサシブリ」と社長は日本語で返してきました。拍子抜けですが私のことを覚えてくれたようです。
通訳さんを挟んで少しお話をしましたが、面接というよりは念のための顔合わせといった感じでした。
そして私は新しい会社に勤務することになります。
条件面としては今のギャラに50万アップの条件をつけました。
それをそのまま呑んでもらえました。家賃補助の分まで考えるとかなりの給与水準アップということになりました。
同業他社に転職が決まってギャラまでアップするなんてホクホクでした。
バリバリの外資企業
さて新しい会社に入りました。立ち上げたばかりなので全社で30人ほどの規模です。
同じ外資系ですがこちらはバリバリの外資でした。
基本的に英語の喋れる人を採用したのでしょう、ほとんどの人が英語を喋ることができ、国内営業さんでも英語をしゃべれる人がいます。
マーケティングは当然本国とのやり取りがあるので英語必須。
社長も仕事の際は英語しか喋らないので何かあるときには通訳が入ります。
衝撃的だったのは入社してすぐのクリスマスパーティーの時です。
社長が話をするので誰か通訳をしろと言ったのですが、
「みんなわかるから通訳いらないんじゃないかしら」と通訳担当の人が言ったのです。
確かに英語が喋れないのはその当時は国内営業の5人ほどでした。
これを機に私は再度英会話学校に通うことを決意しました。
大阪支店
さて大阪支店です。支店は私を含めて3名でした。
東京本社はバリバリの英語でしたが大阪支店はバリバリの大阪弁です。
この頃は私も大阪弁を操れるようになったので、言葉でいじられることはありませんでした。
もともといた二人の中に入っていくのはそれほど大変なことではありませんでしたが、3人になって元からいた二人の関係性が変わっていくのがわかりました。私が一番年上でしたが、二人ともスムーズに受け入れてくれました。
そしてこの二人が働く働く。この二人も同業他社からの転職組ですが、以前の会社でもかなり遅くまで働いていたとのこと。
よくよく聞くと大阪支店にはもう一人営業さんがいたのですが、「もうこの会社はこりごりです」と言って辞めていったそうです。
その人は別業界から来た人なので、この業界の習慣になじめなかったのかも知れません。
そしてその穴埋めに私が採用されたと言うわけです。
韓国での新製品発表会
さて新しい会社にも馴染んだ頃、新ブランドの立上げがありました。
これがなんともグローバルで、世界同時に発売すると言うことでアジア地区の全社員とフランス本社の責任者が韓国に呼び寄せられ、そこで発表会をするというものでした。
ただで韓国へ行けるんだ、と喜んだのもつかの間、会議につぐ会議でまったく外へ出る時間はありませんでした。
夜は夜で日本チームとアジアチームの会食があるのです。この時に英語について発見がありました。
私は会食時間に少し遅れていったため、日本チームのエリアに場所がなく、フランスや韓国の偉い人がいる場所に座る羽目になったのです。
もちろんその場所での共通語は英語です。
偉い人は偉い人同士でいろいろ話していますが、隣の若い韓国チームの女の子が話しかけてくれました。
「韓国料理はお口にあいませんか?あまり召し上がってないですね」
英語だったのですが当時の私にはちゃんとそう聞こえました。
英会話学校を辞めても英語の勉強は続けており、毎日毎日ウォークマンで英語を聞いていたのでヒアリング能力は上がっていたようです。
そして私はここで気づきました。英語が「喋れる」「喋れない」なんて二つのうちどちらかではない。どのくらい喋れるかが課題なんだ。
ここで「英語が喋れない」なんていうのはただのコミュニケーションの拒否になってしまう、と言うことが理解できたのです。
私は、「韓国料理は好きですよ。でも野菜が苦手なんです」と英語で返すことが出来ました。
次の日も韓国チームとの会食でしたが、焼肉だったのでとてもうれしかったです。
二次会では韓国語を教えてもらい、韓国チームと盛り上がりました。
印象的だったのは、
「俺たちは同じチームアジアじゃないか。一緒にがんばろうぜ」
と言ってくれたことです。世界地図が頭に入っている人は言うことが違うなあと思いました。これで私は韓国が好きになりました。
新ブランド立上げ
さて、日本に戻ると新ブランドの立上げです。この新ブランドで今の売上げを倍増する計画なので非常に忙しくなりました。
簡単に言うと仕事量が倍になるわけです。勢いがある会社だったため、新ブランドは順調に推移しました。
しかし働かされる働かされる。この頃家に帰ると毎日ニュース23がやっている時間で、報道ステーションを見ることが出来ませんでした。
たまに20時頃帰ろうとすると、
「もう帰るんですか。早いですね」
と同僚に怒られる始末です。
あまりに仕事量が多く、自主的に休日出勤もしました。
とにかく絶対的に仕事量を減らさないとやって行けないような状態でした。
今日締め切りのことをやるというよりも昨日の締め切りの分から片付けるという感じです。
営業には残業手当がつきませんが、この頃はほんとに毎日よく働きました。
この頃私は評価されたのか年齢を加味してもらったのか、シニアマネージャーという係長待遇になりました。
まさかの遠距離結婚
そして私はこの会社にいるときに結婚することになります。
彼女は東京の人で、私は大阪在住。遠距離恋愛を経てそのまま遠距離結婚をすることになりました。
毎月1回、必ず東京で会議があったこともあり、月に2.3回は東京と大阪を往復しました。
交通費は恐ろしいものになりましたが、マイルもどんどん貯まるのでなんとかやっていました。
1年ほどは続きましたが、このまま遠距離結婚もどうかなと考えるようになりました。
ある誤解
この頃私がちょっとした誤解から取引先とうまくいかなくなってしまい、社内社外からかなりバッシングを受けるようになりました。
私からすれば情報を開示していない会社の責任なのですが、担当者は私。当然責任を負わされるようになります。
この頃本社の営業マネージャーも変わり、そのマネージャーともあまりうまくいきませんでした。
私はシニアマネージャーなのでマネージャー会議と言うものがあるのですが、その会議でもバッシングされました。
遠距離結婚のこともあり、私は東京への転職を考えるようになりました。
ある転職エージェントとの戦い
転職活動を始めました。しかし大阪にいて東京での転職先を見つけるのは容易ではありません。
以前お世話になった外資系のエージェントに再度転職案件のお願いをしました。
ひとつ案件があり、面接できると言うことで東京のエージェント会社まで行ったのに手違いで面接が出来ないと言うことがありました。
外人女性で英語しか喋れない方だったので全部が全部理解は出来ませんでしたが、先方との行き違いがあったとのこと。
面接できなかったので旅費は全部エージェントで負担するとのことで引き下がりましたが、その後メールのやり取りで「半額負担する」と値切ってきた上に結局支払われませんでした。
外資系で有名な転職エージェントなのにです。
これに頭に着た私は早々に登録解除を申し込み、パソコンのブックマークからそのエージェントを削除しました。
そして東京へ
東京での転職先を探していた私に、前職のボスから電話が入りました。
昔かかわったいろいろな人にもいい仕事があったら是非声をかけてくださいとお願いをしていたのです。
そのボスが輸入商社で営業責任者をやっているとは知っていたのですが、今度新しい事業を立ち上げるので一緒にやってみないかとの電話でした。
ただし、新規事業の立ち上げにかかわる仕事なので、ただの営業ではなく、輸入品目の選定から、営業政策の立案、企画書や什器の作成、いたるところまで自分で考えなくてはならないとのこと。
営業以外はやったことのない私でしたが、もともとマーケティングはやりたい仕事であったので、まさに渡りに船でした。
そしていよいよ私の東京復帰のめどが立ちました。
退職するに当たっては、けっこうみんな意外だったようで、残念がってくれる人もいました。
仲のよかったスタッフの子は「あなたがいなくなったらどうするのよ」と涙ぐんでくれました。うれしかったです。
私もこのブランドは大好きだったのですが、残念ながら退職して東京へ行くという道を選び、次のステップへ進むことに成りました。
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