【第5回】消耗品・雑貨業界を渡り歩いた20年の転職記~給料200万円アップの転職~

ある転職エージェントとの出会い

さてまたもや無職になってしまいました。

嫌な会社を辞め、気持ちは晴れ晴れとしていますが懐が寒々としています。

以前もお世話になった転職エージェントに連絡し、恥ずかしながらまた知人にも「いい仕事があったらお願いします」とお願いし、転職サイトを見る毎日です。

すると退職後二ヶ月もたたないうちに転職エージェントから案件をもらいました。

このエージェントの担当さんはとてもいい方で、

「今案件が少ないので、あなたのキャリアでしたら私の方で売り込みに行きますよ。希望の会社とかありますか」

という積極的な方でした。エージェントの方としては珍しく、

「この会社についてご存知のことがあったら教えてください」

とか

「こういう経歴の方を探しているのですが、お知り合いにいらっしゃいませんか」

など向こうから問い合わせをしてくることもありました。この方とはなかなかいいお付き合いが出来たと思います。親身になってくれるリクルーターってそんなにいるものではありませんからね。

壮大な計画

次の転職先はとあるアパレル会社が雑貨事業を一から立ち上げるために作った事業部でした。

このアパレル会社のことをその当時は良く知らなかったのですが、若い女性向けのブランドをいくつも持っていて、ちょうど上り調子の会社だったのです。

実はアパレルとおしゃれ雑貨と言うのは同じファッション産業のせいかかなりの部分で連動しているのですが、アパレルメーカーが雑貨事業に進出するとほとんどの場合失敗するのです。

ライセンス契約の絡みもあるのだと思いますが、そういうブランドをいくつも見てきました。

このアパレル会社はすでに少しずつ雑貨ビジネスに取り掛かっていたのですが、どれも中途半端で決して成功しているとは言えない状況でした。

そこで雑貨事業部を立ち上げ、最終的にすべてのブランドの雑貨をその事業部で統括するという壮大な事業案だったのです。

入社の条件

二回ほどの面接を経て、わたしは無事この会社に勤務することになりました。面接は人事の方と事業部長との面接でした。

事業部長は私より5歳ほど年上の50代の方で、大手化粧品会社で30年近く勤務していたという方でした。

営業畑ではないとのことでしたが、管理職も長いことやっているとのことでとてもあたりのいい方でした。

入社に当たって、私は前々職と同じ給料を希望しました。前職で年俸が200万下がったので、どうしても年俸を上げたかったのです。

給料というのはサラリーマンが自分を売るときの値段です。

一回下がった値段を上げるのは容易なことではないとわかっていましたが、これが最終のチャンスだと考え、提示しました。これは何の問題もなく受け入れられました。

そしてセールスマネージャーという扱いになりました。肩書きは課長でしたが、事実上営業責任者は私しかおらず、すべての営業責任が私に背負わされることになりました。

責任はかなり重いものでしたが、やる気というのはやはり給料と正比例します。その後私は徹夜もいとわず働くようになります。

一からの新規事業

10名ほどのこの事業部はそれぞれの専門職が集められた感じでした。

事業部長を筆頭に、営業、物流、営業開発、プレス、マーケティング、薬事とそれぞれ得意分野がはっきりしていました。

そして全員が中途入社でほとんどが30代以上だったため、最初のうちはなごやかに事が進みました。

この事業はまず、事業計画を立てるところから始まりました。

具体案の前に、どういう方向性のものを作るか、収益はいくらか、何年間で黒字化するか、というところから始まりました。

事業計画を立案したことのない私にとっては細かすぎてすべての内容が把握できませんでした。

またこの会社はすべてのブランドについて毎年この事業プランを立てており、この事業計画について恐ろしく時間を割いていました。

事業計画についての会議は何回も何回も行われ、徹夜になることもありました。徹夜で資料を作っては徹夜で会議をするということの繰り返しでした。

しかしこの会社のいいところは、残業手当が全部支払われるというところです。

営業畑の私は今まで何時間残業しようが残業手当というものをもらったことがなかったのですが、この会社は30分刻みで残業手当がつき、夜遅くなると深夜残業手当がつくのです。

これには正直驚きでした。大体営業というのは「営業手当」と称して1万円程度を支給され、それで残業も何もかも全部込み、ということがほとんどだったのでこんないい待遇があるんだと驚きました。

タイムカードというものを使ったのもこのときが初めてだったのですが、なるほど、タイムカードがあるということは残業代があるということなんだと初めて気がつきました。

鶴の一声

さて事業計画も進み、どんな商品を作るのか具体的になってきました。

まず方向性としては二つのアパレルブランドに絞り、それぞれのブランドに対していくつかの雑貨を作り、アパレルの店舗でも販売し、別の販売ルートでも販売するという計画でした。

アパレルのブランド力に頼った方向でしたが、ブランド力があるのでまず失敗することはないだろうという判断でした。

デザイナーさんとも何回か打ち合わせをし、現在のブランドのコンセプトに沿うように商品を作らねばならないと合意していた矢先のことです。

あるブランド統括の取締役の一言で事業計画がひっくり返ることになりました。

「うちのブランドを潰す気ですか」

言葉は優しかったですが、怒鳴り込むような、確固としてお断りするという意気込みでした。

彼らが言うには、

「今うちのブランドは勢いがあるが、それはきちんとしたブランドコンセプトを立て、デザイナーの綿密なデザインと方向性によって確立したものです。

それを他部署で雑貨を作り、デザイナーでないものが関わることによって、ブランドコンセプトが揺らぐ可能性がある。

ブランドコンセプトが揺らぐということはブランドが危機に陥る可能性があるということです。

あなた方の手によってうちのブランドを潰す気ですか。うち以外にこのブランドに関わらせるわけには行きません」とのことでした。

全社会議にて承認されているはずの事業が役員に否定され、私たちにとっては青天の霹靂でした。

すでに一部は企画だけではなく、製作に入っている部分もあったからです。

事業部長がその後あちこちに根回ししたものの事業部長も我々も所詮は新米の外様にすぎません。

根回しは上手くいかず、最終的な社長決裁は、

「君たちが既存のブランドを潰すとは思わないが、逆にそのブランドが潰れたら君たちのこれからのビジネスもそこで終わりだ。既存のブランドに頼らず、新しいブランドを作ってください」

と言うものでした。

とはいうもののブランド力があるという前提で売上予算を立てており、それは初年度から数億円と言うかなり高いハードルでした。

ブランドネームを借りることはできなくなり、かといって予算を下げてもらえるわけではなく、私と事業部長はかなり絶望的な気持ちになりました。

そこで「出来ません」と言えばこの会社には居られなくなるからです。

まだ事業は始まったばかり、この会社は「出来る奴を抜いて来い」というのが口癖で、ヘッドハンティングはお得意で同業他社から何人も引き抜いてきているのです。

私が出来ないと言えばお払い箱になって「出来ます」という人を連れてくるだけの話です。

事業部長とは「これは無理ですよ」という話をしていましたが、事業部長も困っており「社長直で話するしかないな」と言っていました。

縁は異なもの

閑話休題。この会社に入ってまもなく、前の会社でマーケティング部長をやっていた人がオフィスに来ました。

この会社は結構いろんな部署で社員を募集していたので思わず「面接ですか?」と聞いてしまいました。

よく聞くと彼も前の会社を退職し、自分で会社を立ち上げたとのこと。

自分で海外製品のルートを持っているらしく、本社の輸入部門に商談に来たとのことでした。縁のある人間ってどこかで繋がっているものなのでしょうか。

展示会や商談会ならともかく、こんなところでお目にかかるとは思っていませんでした。

彼は意外と情報通で

「前の会社もいろいろあったけど、御社もいろいろあるらしいね」

と言って私の耳に入ってきていない情報を2.3教えてくれました。

なんで社員が知らないことをこの人が知っているんだろうと不思議な気持ちになりましたが、大昔

「自社のうわさは他社に聞け」

と大先輩が言っていた科白を思い出しました。

事業部長の逃走

そんな中、事業部長の様子がおかしくなりました。

何の連絡もなく直行したり、日中打ち合わせと称して数時間いなくなったり、行先も明確にせず直帰したりすることが多くなってきました。

社員全員が気付くほどのレベルです。

さすがに私が

「新規事業を立ち上げるのでいろんな方に会うこともあると思いますが、連絡なしの直行はやめてください。我々が他部署の方に聞かれても部長がどこにいるのか返事が出来ないのは困ります」

と二回ほど進言しました。しかし行方不明はそれからも何度か続きました。そしてある日、私ともう一人のバイイング担当マネージャーが事業部長に呼び出されました。事業部長と一番懇意にしていた二人でした。

近場の喫茶店に電話で呼び出され、何か不穏な臭いを感じました。

「みなさんには申し訳ないが、辞めることになりました」

第一声から何の前振りもなく直球でした。話の内容としては、経営陣との折り合いがよろしくなく、退職勧奨をされたような口ぶりでした。

確かにこの事業部長の不明瞭な行動は社内でも話題にはなっていました。

そのせいなのかとも思いましたが、話の内容が微妙に辻褄が合っておらず、どこかで

「この人結局事業計画が上手くいかないことが分ってケツまくるんじゃないだろうか」

と思えてしまいました。

結局この日を最後に突然事業部長はいなくなり、後任の事業部長も決まらないまま事業はは進むことになります。入社して5か月目のことでした。

新製品発売

事業部長が不在のまま、それでも事業は進み、プレス担当マネージャーが事業部長代理として任命され、本社との窓口となりました。

この人は私よりもかなり年下だったのですが、弁が立ち、上から目線の人だったのですが、上司には絶対に逆らわないという典型的なサラリーマンの術を身につけている人でした。

第一次新製品については私とバイイングマネージャーと商品開発がメインで作っていたのでこの時点では事業部長が誰であろうがあまり困ることはありませんでした。

紆余曲折はありましたが無事に製品は発売され、市場に出回りました。

一から自分たちで作った商品をお店で見るのは感無量でした。初めての製品ということで宣伝費も比較的使うことができ、認知度もかなり上がりました。

いきなりの大ヒットというわけではありませんが、ヒット商品と言っていい程度には業界内では認知されました。

出来る部下の登場

この時点まで営業部は私一人でした。もう上から下まで、取引先の本部商談から小売さんの店舗から北海道から九州までひとりで走り回っていました。

さすがに一人では回すことが出来ず、営業さんを一人雇うことになりました。このこの営業が20代だったのですが、とてもよくできた子でした。

最初の三か月は契約社員で入ったのですが、残業があろうが休日出勤があろうが文句ひとつ言いません。前々職の時にこの業界に1年くらいいたらしく、あっという間に仕事に馴染みました。

取引先からの評判もよく、私にもよくなついてくれたので楽しく仕事が出来ました。今までいろんな同僚や部下と仕事をしてきましたが、

「仕事を変わることがあっても絶対にまたこの子と仕事がしたい」

と思わせてくれたのはこの子が初めてでした。一度教えたことはすぐマスターし、結果を出してくる子でしたので、営業のほとんどのことを任せることが出来ました。

売れない商品

さて初回の商品を発売したものの、次の商品を発売せねばなりません。

商品計画はある程度出来ているのですが、実際には市場ニーズに合っていない商品が多く、営業サイドからは何度も指摘をしたのですが、商品開発は何故かガンとして受け付けません。

自分で作ったものにケチをつけられたようで面白くないのはわかりますが、流通段階のヒアリングで受け入れられないものは売れるわけがありません。

10品ほど製品化しましたが当たり外れが激しく、2品ほど多少売れはしたもののの頃は在庫の山となりました。そしてその責任は最終的には営業責任者に降りかかってきます。

毎日毎日朝礼で予算達成率を発表せねばならず、毎日が苦痛の日々でした。

破綻への道、そしてリストラ

この頃少しずつ事業部に変化が起こってきます。

本社から送り込まれてきたマーケティングアシスタントが本社に戻され、私の片腕として活躍してくれた営業の子がヘッドハンティングされ退社し、人数が少しづつ減ってきました。

また、新規開拓を担当していたマネージャーも

「先に言っておくけど、俺あと3ヶ月しかいないから」

と言ってきました。なんだか泥船からみんな逃げ出すようなイメージでどんどん人がいなくなりました。

そしてまたも私にリストラの波がやってきます。

事業部担当取締役に呼び出された私は、

「残念ながらこのままでは事業が立ちいかず、人件費を削らないとどうにもならない」

と言われました。なるほど、人がいなくなっても補充しないのはそういう理由なんだろうなと改めて納得しました。

私がいなくなると残された社員たちは全くの素人さんたち、つまり別業界から来た人達だけになります。

不安ではありましたが、ここにいることもできず、私は次のステージへ行くことになりました。

その後まもなく物流マネージャー、マーケティングマネージャーもリストラされ、後々のことですが、結局この事業部は閉鎖したと風の噂で聞きました。

厳しい時期もありましたが、立上のメンバーとして最初からおりましたので、もう少しうまくいく方法はなかったのかと複雑な気分でした。

でも、そんな方法はなかったのです。私は当時最善の努力をしてきたのですから。

サブコンテンツ

絶対に外せない転職エージェント3社

    ランスタッド

このページの先頭へ