【第1回】いろいろあった20代、30代の転職~バブルに浮かれて見失った夢~

体験者の情報
名前:熊谷五郎(仮名)
性別:男性
転職経験:7回以上
現在の年齢:45歳
転職時の年齢と前職:20代~30代

バブル期の頃の就職活動

私が就職活動をしていたのは、まだ就活などと言う言葉もない平成のはじめの頃です。

当時は好景気に沸き、大学生も夜な夜なパーティを開いたり、クルマを持っていなくては女の子にも持てない時代でした。

ファッションは渋カジか、紺ブレ。渋カジは「渋いカジュアル」ではなく、渋谷で売っていそうなアメリカンなカジュアル、

「紺ブレ」は、金ボタンの付いた紺色のジャケットのことで、いまや高校の制服にしか見えないスタイルが流行の最先端でした。

当時は誰もが、この景気はずっと続くものだと思っていました。

このお話は、その後に深刻な不景気が訪れ、「バブル経済」と呼ばれる前の出来事です。

「売り手市場」で、無能な学生がテングになる

札幌を離れ、青森の大学に行っていた私は、ゴールデンウィークが明けると実家に戻り、就職活動を開始しました。

当時は、「売り手市場」と言われ、4月になると見知らぬ企業から会社説明会のDMや、直接電話で「当社を受けてみませんか」と言う誘いがあるのが当然で、就職に関する情報は黙っていても来るような状況でした。

慢性的な人手不足のため、黒字でありながら倒産する企業もあり、どこも質より量を重視した人材確保に躍起でした。

しかし 当時は、あちこちの企業から誘いが来るので、多くの学生は、自分が偉くなったような気になっていたのです。

人気企業は高根の花

私には入社したい業種が2つありました。一つは旅行会社で、もう一つは報道関係です。
旅行会社は、中学生のころから一人旅が好きで、旅先で逢った人たちから受けた親切を、今度は旅の好きな人たちに還元したいと言う、今から考えればよくわからない理由から。

報道関係は、小学生の頃にテレビでみた、銀行強盗事件の印象が強く、「最前線で真実を伝えたい」と言う理由でした。

大学生の人気企業ランキングでも、旅行会社やマスコミは、上位のため、いくら売り手市場と言っても、企業側からすり寄ってくることはなく、内定を掴むには相当な努力が必要でした。

子供のころからの夢は、そう簡単に叶うものではありませんでした。

就職戦線から早々と離脱

アスリート、医師、キャビンアテンダントなど、夢をかなえた人達は努力を積み重ねて結果を出しますが、私は「努力するくらいなら諦めよう」というタイプでした。

旅行会社は大手一社に不採用になっただけで諦め、報道関係は、筆記試験が難しそうだからと受けもしませんでした。

「そんな苦労をしなくても、いくつか適当に受けた会社から内定をもらっているし、その気になれば他にも仕事はある。

結局夢だなんて言っても、働いて金を稼ぐのなら、何をやっても同じ」と、 自分に言い訳をして、早々と就職戦線を離脱したのです。

すく手の届く企業に内定

内定した数社から選んだ会社は、東証1部上場のアパレルメーカーでした。

母親がアパレル関係の仕事をしていたので、なんとなく内情を知っていたことと、わりと業界では有名なことが決め手であり、別にアパレルに興味があったわけではありません。

営業職での採用も、「自分には技術や資格はないのだから、採用枠が多い営業くらいしかできないだろう」と言う後ろ向きの選択です。

思えば、大学時代に遊んだ記憶はありますが、授業を受けた記憶がありません(笑)。

教職課程も途中で投げ出し、在籍中に取得した資格は、ひとつもありません。

「大卒」という学歴さえあれば、就職は何とかなると思っていたのです。

風変わりな研修が始まる

翌年3月に入ると、早々と研修が始まりました。

全国で採用された学生が、本社のある東京に集められ、バスに乗って群馬県の民間研修施設に移動します。同期は約60名。

女子は別の場所で研修を行っているとのことで、男ばかり40名で2週間の研修に挑みます。

テレビなどでよく、 自衛隊に体験入隊させたり、待ちゆく人に大声で挨拶をさせたりする風変わりな研修 を見かけますが、この会社の研修もかなりおかしなものでした。

研修施設に付くと、4、5人のグループに分けられ、グループワークを行います。

グループごとに入社1年目の先輩社員が1人配置され、グループの出した結論に合否を出すのですが、授業などとは違い、「おまえらの考えは、その程度のものなのかぁ?!

などと恫喝され、納得のいく結論が出るまで夜中まで続きます。

その他にも「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」「失礼します」「申し訳ありませんでした」等、ビジネスでよく使われる言葉を何度も復唱させられるのですが、そのたびに「声が小さい」「もっと腹から声を出せ」など罵倒され、喉がつぶれても叫び続けます。

たかだか研修で人生が左右される

最初は「こんなことをやって何のためになるのか」と思うのですが、洗脳とは恐ろしい物で、徐々に「やらなくてはならないもの」という考えに変わってきました。

熱を出したため、遅れて参加した者が一人いましたが、普通に挨拶した途端、まわりから「声が小さい」「熱ぐらいで遅れて来るんじゃねーよ」と怒鳴られ驚いていました。

すでにハイテンションな私たちについて来られず、彼は翌朝に姿を消していました。

こんな研修に途中から参加するなど無理な話です。

結局彼は入社を辞退したそうですが、今思えば研修一つで人生を左右するのはおかしな話です。

煩悩しか浮かばない禅寺研修

一週間後、人里離れた研修施設からバスに乗せられ、さらに奥地の赤城山に移動します。

研修期間は、外出どころかテレビを見ることさえ許されないため、世の中で何が起きているのかまったくわかりません。

「新興宗教のようだな」と思っていたら、今度は禅寺での修行が待っていました。

夜中まで大声を出す研修から解放されたと思ったら、今度は早起きし、寺を掃除し、座禅を組まなくてはなりません。

唯一の楽しみである食事は、味気ない精進料理。

しかも硬い床に正座をしなくてはならないので、ほとんど味わうことなく口に放り込んでいました。

座禅の最中は、煩悩を忘れ、無の境地にならなくてはならないと教えられましたが、二週間も禁欲生活を強いられていたため、頭に浮かぶのは煩悩ばかり。みんなエッチなことばかり考えていたと言っていました(笑)

研修第二部はアルバイト

狂気の研修が終了後、いったん青森に戻って卒業式に参加。翌日にはまた東京に行き、研修第二部の再開です。

今度は池袋の社員寮に住み込み、新宿の営業センターで10日間の研修を行います。

寮には、札幌で採用された新人が4人、福岡で採用された新人が2人、それと入社1~5年目くらいの先輩社員が暮らしています。

研修では、「悪役を演じていた」そうで、担当した先輩社員も大変だったと言っていました。

営業センターでは研修と称して、パートの方々と一緒に、一日中商品の値札付けをやらされます。

私たちは都合よくこき使われていることに気づいていたので、「研修」ではなく、「バイト」と呼んでいました(笑)

入社式に林真理子現る!

入社式は、東京タワー近くの会館で行いました。

毎年著名人の公演があり、その年は、当時の社長と同郷の林真理子さんが呼ばれていました。

当時、育児を巡ってアグネス・チャンと対立していたので、「職場にガキなんか連れて来るんじゃねーぞ」と言う話でもするのかと思いきや、普通にファッションの話をしていました(笑)

辞令交付はサバイバル

入社式が終わると、本社での辞令交付となります。

地方で採用された者は、地元配属になるものと思いきや、札幌と福岡から1名ずつが東京勤務に!

人事は東京勤務になったUくんに、「今からすぐに札幌に戻って引っ越しを済ませ、3日後に東京に戻るように」とムチャを言っています。

福岡から東京勤務を命ぜられたSくんは、そのまま消息を絶ったそうです。

3人で札幌に帰る機内で、「Uも戻りたかったろうな」「人事にリップサービスで、東京もいいですねなんて言っちゃったらしいよ」「これって戦死したようなもんだろ?

などと話題にした後で、「でも、東京残留が俺たちじゃなくてよかった」と胸をなでおろしました。

礼服よりも真っ黒な企業

翌日から、早々と札幌支店での勤務が始まりました。

営業セクションは、札幌市内を担当する営業一課と、札幌以外の地域を担当する営業二課に別れ、同期の2人は営業一課、私は営業二課に配属されました。

まず驚いたのが、タイムカードです。普通は時間が刻印されるから「タイムカード」と言うのに、 この会社は日付しか刻印されず、時間は上司がボールペンで書き込むのです。

また、勤務時間は10時から19時までとなっていて、毎日終礼が行われるのですが、そこから第二部が深夜まで続きます。

私は自宅から通勤していたのですが、上司から「終電に間に合わないので、会社の独身寮に入るように」と勧められました。

それでも寮を断り、終電前に退社する私に対して上司は、「シンデレラボーイ」と命名してくれました。超不愉快です。

空を見ることがない日々

同期二人は仲良くやっているのかと思いきや、お互いにライバル心があるようで、どちらかと昼食をとると、どちらかの悪口を言う有様。

外勤が多い彼らと違って、私の仕事は、地方のデパートから頼まれた商品をストックルームから出して発送するだけの毎日です。

オフィスの窓は商品に紫外線があたらないよう、つねに黒いカーテンが引かれ、太陽の光を浴びることさえできません。

通勤は地下鉄で移動し、夜遅くに帰るので、空を見ることさえなくなりました。

夢を追うために再チャレンジ

「なんでこんな仕事を選んだんだろう?」常に後悔の念が頭を過ります。

先輩方から「人間道場」と陰口を叩かれている厳しい課長が直属の上司なのも、気を滅入らせました。

「もっとしっかり就職活動をするべきだった」「もっと夢に向かってチャレンジすべきだった」

企業の側から積極的に求人が来ることで、 「夢を追う」ことより「就職しやすさ」を優先した結果、入社してからミスマッチに気付くのでした。

そして私が取った行動は、「再チャレンジ」もう一度就職活動を始めたのです。

おやつの時間にいなくなる男

入社から2か月後、旅行業界に的を絞り、就職活動を開始しました。

何社かに電話をして事情を伝え、「来年度の新卒採用試験を受けさせてもらえないか」と打診します。

バブル末期であり、好景気の勢いが残っていたことと、入社1、2年で退職した人を「第2新卒」などと呼ぶようになり、企業側にも免疫が付いていたことから、数社が快諾してくれました。

今のように携帯電話がなく、3時からの15分休みに抜け出して、会社の前の公衆電話からかけていたので、上司から、「おやつの時間にいなくなる男」と呼ばれていました。

夢の仕事までもう一歩

勤務していた会社は、休日を平日の好きな曜日に指定できるので、採用試験に合わせて休みを取りました。

同期のひとりが協力的で、どうしても休めないときに、外出先から私を呼び出してくれて試験に行かせてくれることもありました。

最初に受けた会社は2次試験で不採用、次の会社も最終選考で不採用と思ったような結果が出ない中、航空会社系の会社の最終選考まで残ることができました。

600人ほどいた受験者が10人程度に絞られ、あとは役員面接をクリアできれば道が開く。

すでに合格した気分で、退職届まで提出していたので、背水の陣で臨みました。

鳴らない電話を見つめ続ける

「採用が決まった際は、○月○日の19時までに電話でご連絡します」と言われ、その日はワクワクしながら家で電話を待っていました。

しかし電話は鳴る気配を見せません。19時を過ぎても連絡がなく、ずっと電話を見つめていました。

自分が不採用になったと言う事実を受け止められなかったのです。

その日はずっと泣いていた記憶しかありません。もう一度やり直すべく、親に頼み込み、年内いっぱいだけ夢を追う猶予をもらいました。

退職日の先輩からの一言

退職する日にデスクを整理していると、先輩が来て私にこう言いました。

「旅行会社がお前の夢だったように、この会社に入るのが夢だった奴もいるんだぞ。お前はその一席を奪って入ったんだぞ。それを忘れるな。」

在籍期約3か月あまり。

社会人としてのビジネスマナーを身に着ける暇もなく、ただ夢を追って退職してしまったことが、その後の人生において大きな枷となることに、この時はまだ気づいていなかったのです。

この記事の筆者

熊谷五郎(仮名)
一部上場企業、中小企業、国家公務員、地方公務員、私立学校教員、医療法人、社会福祉法人と多彩な(?)転職経験があり、それなりに良いことと、多くの嫌なことを経験しました。

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