【第7回】いろいろあった20代、30代の転職~孤島で暮らすのは楽じゃない~
師と仰いでいた人が開設した特別養護老人ホームに転職したものの、1年余りで袂を分けることになりました。
軋轢の原因は価値観や立場の違い。離れていた4年の中で、仕事への向き合い方が変わっていったのです。
「自分が老人ホームでやりたかったことは、高齢者と膝を突き合わせて話すこと」
都市部の施設では難しいと思ったため、今度は最北の島に移住することとなったのですが...
- 体験者の情報
- 名前:熊谷五郎(仮名)
性別:男性
転職経験:7回以上
現在の年齢:45歳
転職時の年齢と前職:20代~30代
北の島に向かう
車窓から見える景色が、北に進むごとに雪深くなる中で、まだ1歳になったばかりの娘は、どこに向かっているのかもわからないまま、ぐっすりと眠っています。日本最北端の街まで特急で約5時間。
そこからフェリーに乗り、島まで約1時間40分。港から私が住むことになる集落まで、さらに30分も車で走らなくてはならなくてはなりません。
フェリーに乗り換えると、冬の荒れた海に船が大きく揺れ、厳しい環境に来たことを実感しました。
まもなくして島が見えてきます。日本海に浮かぶ円形の島は、面積182.11km2。火山活動によってできた島であり、中心に標高1,721.0mの山がそびえ立っています。
「こんなところに暮らすのか」期待よりも、荒々しさに圧倒されて、とんでもないところに来てしまったと思いました。
離島での生活
ともあれ島での新生活が始まりました。町営アパートは新築ながら3人で暮らすには少々狭く、親子で肩を寄せあって眠りました。
春になると厳しさも緩み、雪解けに春の訪れを感じます。
潮の香りに名産である昆布を干す匂いが合わさった爽やかな風が島を包みます。
毎日眺める景色は季節ごとに四季折々の色彩が美しく、旅行で来るには最高の場所です(笑)やはり、生活するには大変でした。
- 買い物が不便
- フェリーが欠航すると物資が消える
- ガソリンが高い
- 閉鎖的な環境
フェリーターミナルがある中心地から車で30分も離れた集落には個人商店しかなく、賞味期限切れのものが当然のように売っています。
生鮮食料品が手に入らないので、わざわざ30分も車を走らせて中心地に買い物に行かなければなりません。
幸いなことに、引っ越してから3か月後にコンビニができたのですが、そのありがたさに涙が出そうになりました。
冬は海が時化ることが多く、よく生命線であるフェリーが欠航します。2、3日欠航が続くと、店から品物が次々と消えていきます。
それに備えて通常の冷蔵庫のほかに、買いだめ用のフリーザーを用意。万が一に備えます。
新聞は3日間欠航した分が4日目に届くので、配達された瞬間に古新聞です。
島で入手しづらい食品をコープの「とどっく」で取り寄せていましたが、欠航によって鮮度が落ちてしまうことが何度かありました。
ガソリンや灯油は通常より2~3割程度高いです。一時期のガソリンの高騰ではレギュラー1リットル当たり200円を超しそうな勢いでした。
必ず買い物に使わなくてはならないので出費がかさみます。
あまりの出費に車を大型車から軽自動車に買い替えてしまいました。
4か所あるガソリンスタンドが一斉に日曜日に休みになるのも困りものです。
車で1周しても50分足らず、アパートと職場である町立特別養護老人ホームは目と鼻の先、会う人もいつも同じと言う環境は、想像以上に堪えました。
以前勤めていた山のふもとの村も村特有な閉塞感があったものの、そこを離れてしまえば雄大な自然があったり、足を延ばせば都会に行くこともできましたが、正面を海、後ろを山に囲まれた小さな集落では、気分転換をすることができません。
後々この環境が、私たちを苦しめることになります。
離島の子育て
少子高齢化が進むこの集落でも保育園、小学校、中学校の最低限の教育機関が揃っていました。
ただし子供の数が少ないため、複式学級と言って、違う学年が一緒の教室で授業を受ける方式が採られています。
同級生が誰もいない子もいました。私の娘は4歳から保育園に通い始めましたが、幸い同い年が7人と最も多く、友達もできて仲良く遊んでいました。
私以外のほとんどが島の出身で小さいころから知り合いということもあり、家族ぐるみのイベントも頻繁に行われます。
保育園の職員とも親しく、園児の発表会が終わると、保育園内で昼間から宴会が開かれることも多々ありました。
そのような環境なので気を付けていたのは、仲間の輪の中からはみ出さないこと。
将来的には福祉系専門学校の教員になることが夢でしたが、それが叶わない場合、この島で暮らすことも考えなくてはなりません。
同じメンツでずっと生活するためには、 この地域のルールを厳守して、仲間外れにならないようにすることが必要だと思ったのです。
娘にはなるべく人と同じことをするように教え、私自身もこの島で生まれ育ったように振る舞いました。
何よりも個性を大切にする私が、没個性を強いていたのです。
町立施設は退屈
町立特別養護老人ホームは、開設から20年以上が経過した古ぼけた施設です。
私の業務は、利用者の介護計画を作成するケアマネージャーです。
職員は町職員のため、あくせくしたところがなく、よく言えばのんびり、悪く言えば無気力な感じで仕事をしていました。
福祉施設では破格の給与で最低限のことを行っていればよいのですから、積極的に働こうという気は起らないのかもしれません。
あまりにも退屈なので、行事やレクリェーションを行おうとすると、何人かに「余計な仕事を増やすな」「年寄りの人気取りをするつもりか」と睨まれるので、何もやりようがありません。
直属の上司の係長は徹底的な事なかれ主義者で、「逆らっても仕方ないからな」「性格だから仕方ないな」と、何かを改善するつもりはなく、この場を脱出することばかりを考えて、毎年本庁への移動願を出していました。
きちんと仕事を進める人もいましたが、大半がこのような感じなので、利用者も退屈しきっています。
一度「ここにいて楽しい?」と聞いたことがありますが、「楽しくなんかないさ。行くところがないからいるだけだよ」と返され、申し訳ない気分になりました。
地域からのSOS
島の施設に勤務して3年目のこと、家庭で介護する人たちを支援する「居宅介護支援事業所」から、一人の男性高齢者を何とかしてほしいと相談がありました。話の内容は以下の通りです。
「老老介護で、年老いた妻が、寝たきりの夫の介護をしているが、奇病のため体がくの字に硬直しているので、介護がものすごく大変だ。また、なぜか両足が腐りかけている。
本来なら入院して療養するべきだが、本人が頑固な性格のため、医者とケンカをして病院を追い出された。
奥さんは長年の介護で腰椎にヘルニアを発症し、無理がさせられない。施設に入所させてもらえないだろうか」
居宅介護支援事業所の養成を受けてそのお宅に行ってみると、ベッドに横たわる長谷川紀夫(仮名)の姿がありました。
体が硬直しているため、ギャッチベットの調整が難しく、少しでも角度が違うと苦痛だそうです。
足の腐りもひどく、包帯の巻き方に本人なりのこだわりがあるようでした。
他人が家に入ることを嫌うため、ホームヘルパーを使うことができず、その集落の診療所の医師が往診に来る以外、すべて奥さんが世話をしているようです。
状況から考えて施設で受け入れるしか方法はないと思ったのですが、やはり介護職員の反発が待っていました。
難航する入所判定会議
新しく人を入所させるためには、施設職員と第三者で構成する入所判定会議を開催するのですが、施設においても介護の負担が大きい長谷川氏の入所決定は非常に難航しました。
私 「家庭での介護の状況が思わしくないので、長谷川氏をすぐに入所させた方がよいのではないでしょうか」
介護職員「長谷川氏は、要求が多くてとても手がかかる人ですよ。そんな人を入れてもらったらこっちが困ります」
施設長 「でも施設側の理由では断ることは出来ないだろう」
介護職員「あれだけ要求の多い人に対して満足行く対応なんてできないですよ。じゃあ、施設長が介護してくれるんですか?」
この施設では、2、3年で本庁に移動になる施設長よりも長く勤めている介護職員の発言力が大きいのです。
中でも今回会議に参加しているAは、派閥を率いるボス格です。
女性が多いためか介護施設では派閥ができやすく、この施設にはA派閥とI派閥、無所属があったのですが、Iが移動になったことによりAの力が増し、一大勢力を築いていました。
実際のところAを慕っているのではなく、睨まれると厄介なので、みんなおとなしく従っていると言ったところです。
このまま医療機関や施設をたらいまわしにしても何の解決にもならないですし、何よりも長谷川氏の奥さんが倒れてしまうと考え、私が介護を手伝うと言う約束のもと長谷川氏の入所が決定しました。
もちろんその時の仏心が自分を追い込むことになるとは、知る由もありません。
第二の壁
長谷川氏は、ウワサに聞いたとおり自己主張が強く、「包帯の巻き方が違う」「ベッドの角度が違う」と、その都度介護職員や看護師に注文を付けました。
ほかの介護職員が、「なんでこんな人を入所させたんだ」と言っているのも聞こえてきます。
交代勤務の施設でも大変な人は、24時間介護し続けなければならない家庭では、もっと大変なのです。
入浴の介助は、私と介護職員の有志が行いました。A派閥の介護職員が行うことは決してありません。徹底的に嫌われたようです。
問題はそれだけでは済みませんでした。今度は「なんでこんな状態になるまで足を放っておいたんだ」と嘱託医が騒ぎ始めました。
往診に来ていた医者とは違う医者です。
「このままでは死んじまうぞ。もし死んだら俺の責任になるじゃないか」とわめきます。
「本人が入院を拒否していましたし、○○先生(往診に来ていた医者)が家で暮らさせてあげたいと言って往診していましたから」と言うと、
「じゃあ、あんたが本人を説得させて入院させな」と言われました。
「また俺かよ!」と思いましたが、死へのカウントダウンが始まっていたので、私は長谷川氏の説得に挑みました。
長谷川氏に病院に行くように説得するも、首を縦に振りません。
足の壊死は進み、なんとも形容しがたい臭いが部屋に充満しています。
「もう死んでもいいんだ」と言う長谷川氏に業を煮やし、「違うね。長谷川さんは臆病なだけだ。本当は死ぬのが怖いはずだ。生きていたいなら、黙って病院に行きなさい!」そう怒鳴ると、小さく「わかった」と言いました。
島では処置できないため、フェリーに乗せて島の外の病院まで搬送しなくてはなりません。
冬の嵐が続き、フェリーの運航が再開したのはそれから4日後のことでした。施設のハイエースに長谷川氏を乗せ、フェリーに乗り込みます。
本来であれば看護師が同行した方がよかったのですが、都合によって同行できなかったため、事務員1名が同行することになりました。
長谷川氏はずっと眠っていたので、起こさないように病院を目指しました。
車の中で消えた灯
病院が近づいたので、「長谷川さん、もうすぐ病院ですよ」と起こしてみたものの息も脈拍もない。入院の予定が緊急処置室に直行。
何も知らずに迎えていた親族に、「なんで心肺停止しているんだ」「なんでこんなになるまで放っておいたんだ」「なんで看護師が一緒じゃないんだ」と詰め寄られ、言葉を失いました。
結局蘇生はならず、患者を搬送したハイエースは、遺体を積んで島に戻ることになりました。
これまでのいきさつを知っていた長谷川氏の奥さんは感謝してくれましたが、事情を知らない人たちは好き勝手なことを言います。
往診をしていた医者から、「私は家で生活させることを望んでいたのに、なぜそうさせてあげなかったんだ」と言われたときは、怒りが頂点になりました。
それなのに、なぜ非難を浴びなければならないのか!
その瞬間、心の奥底にしまい込んでいた10年間の鬱積があふれ出し、食欲も気力もなくなりました。
福祉に燃え尽きる
そのあとの1年間はまったく無気力なままでした。人の人生に介入するのが怖くなったのです。
島の生活も無理が祟っていました。私は職場と家を往復するだけの毎日では気分転換が図れず、家庭で荒れるようになりました。
育児と近所づきあいしかない妻もイライラが募り、娘を連れて実家に戻ったきり帰ってこなくなりました。
一番大切なものを自分が懸命に壊していたのです。
「このままではすべてが壊れてしまう」私は自分や家庭を守るため、4年間住んだ島を離れる決心をしました。
すでに福祉系教員となる実務経験は満たしていましたが、時期が悪くどこの学校も教員の採用を行っていません。
その中の一校に、「産休でも補欠でもよいので、教員の空きがありましたらご紹介ください」と書き添え、書類を送りました。
なんとそれから一週間後に、「一度お会いしてみたい」と連絡が来たのです。
偶然、面接官の一人が、山のふもとの老人ホームに勤務していた時にお会いした方だったことから話が弾み、あれよ、あれよという間に採用が決定!島からの脱出と福祉系教員の座を手に入れたのでした。
この記事の筆者
熊谷五郎(仮名)
一部上場企業、中小企業、国家公務員、地方公務員、私立学校教員、医療法人、社会福祉法人と多彩な(?)転職経験があり、それなりに良いことと、多くの嫌なことを経験しました。
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