【第2回】いろいろあった20代、30代の転職~追っているのは夢? ノルマ?~
「夢を追う」ことより「就職しやすさ」を優先した結果、入社してからミスマッチに気付き、最初のアパレル会社をわずか3カ月で退職。
夢を追ってみたが、大きな壁に阻まれることに!
- 体験者の情報
- 名前:熊谷五郎(仮名)
性別:男性
転職経験:7回以上
現在の年齢:45歳
転職時の年齢と前職:20代~30代
今回の記事の目次
夢への再挑戦
前の会社を退職後、小さな旅行会社でアルバイトをしながら、大手旅行会社の求人が出るのを狙っていました。
前の会社で先輩に 「同じ物を売るなら、ネームバリューのある会社が有利だから、大手を狙えよ」と言う言葉が頭に残っていたので、意地でも大手に入りたかったのです。
年も押し迫った11月にチャンスが巡ってきました。日本大手の旅行会社が中途採用を募集したのです。
筆記試験、面接と続き、最終選考まで残ることができ、またしても夢の実現まであと一歩。
何百人もいたライバルたちは消え去り、とうとうラストステージです。
役員の前でも落ち着いて考えを伝えることができ、あとは果報を待つだけ。しかし届いた結果は非情なものでした。
なんとなく受けたら難関突破
「もう十分にチャレンジした。夢はあきらめよう」親との約束であった猶予期間も残り1カ月と迫っていたことから、旅行会社に入る夢はあきらめ、食べて行くために業種を問わず手当たり次第に履歴書を送りつけました。
「医薬情報担当者募集」「東証一部上場」「全国勤務あり」転職誌で目が留まったのは、製薬会社の営業募集の求人でした。
もともと文系なので、製薬会社で務まるかと思いましたが、軽い気持ちで受けたところ何故か難関を突破。
「年が明けて早々に千葉で研修を行う」と言われ、航空券が手渡されました。
急な話なのにはわけがあって、すでに全国で6人の中途採用を実施したものの、突然1名が辞退したため、一斉に研修を始めるためには早急に1名追加をしなくてはならなかったそうです。
そこでなぜ私が採用されたのかは分かりませんが(笑)
社会人としての出直し
年が明けると早々に千葉市幕張の研修センターに向かいました。
研修は3部構成になっていて、1部は千葉の幕張での基礎研修、2部は茨城の研修センターでの応用研修、最後は配属先支店での現場研修、それを終えて3月末と本配属になります。
同期は全員20代で、薬剤師が2人、薬品卸が2人、動物向け薬品営業が1名で、まったくの素人は私だけでした。
研修は、学術部の社員が講師となり、体のメカニズムや薬理作用などの専門知識を教えます。
毎朝に行われる試験のため、研修時間が終わっても勉強しなくてはなりませんでした。
中途採用には珍しく、研修内容にビジネスマナーが含まれていたので、社会人としての基礎を学ぶ前に会社を辞めてしまった私には大助かりでした。
未知なる地への赴任
第二部の研修が終わり、各赴任地が発表になります。
私の赴任地は名古屋支店でした。縁もゆかりもない地名を目にした時、「さすがは全国企業だ」と、妙に納得したものです。
名古屋支店は、静岡県、岐阜県、三重県の3県も統括し、それぞれに営業所を置き、さらに県内にもいくつかの出張所が置かれています。どうやら現場研修の後で、本配属先が発表されるようです。
正式に配属が決まるまでの約1カ月間、ビジネスホテル暮らしを強いられました。
医薬情報担当者(MR)のしごと
現場研修では先輩職員に同行して、業務の手順を学びます。
医薬業界のシステムを簡単に説明すると、薬は製薬会社が病院や薬局に直接売ることは禁止され、必ず医薬品卸を通さなくては販売できません。
また、薬価と言う公定価格があり、製薬会社から病院や薬局、卸に納入価格について発言することも禁止されています。
製薬会社の営業職は、「医薬情報担当者(MR)」と呼ばれ、医薬品の情報を提供することで、症例に適した自社製品の使用を促す役割を担っています。
1997年よりMRになるためには、「MR認定試験」に合格しなければならなくなりましたが、当時は誰でもなれたのです。
待合室は静かなる戦場
あらためて待合室を見ると、患者に混じって各製薬会社の社員や、医療機器メーカーの社員がゴロゴロいました。
何度も足を運んでいても必ず受付に名刺を出し、席が空いていても必ず起立。
不自然に大きな名札、カバンの中の薬のパンフレットとイチオシの製品名が書かれたボールペンや定規などのノベルティグッズは必需品。
ひたすら名前を呼ばれるまで待ち続けます。
医師に呼ばれたら手短に、しかし相手に食い込む話をしなくてはなりません。
どこのメーカーも同じような薬を出しているので、薬効よりも”先生”に好意を持たれたMRの勝利です。
プライドをくすぐり、話を合わせ、医者だけが得をする提案をして、気持ちよくなってもらってところで、究極の一言「じゃあ、卸に連絡しておいて」を引き出すのです。製薬会社は全国に5,000社あまり。
ノンキに医薬情報だけを伝えても売り上げにならないのです。
「どう? 」あっけにとられていると、先輩社員に聞かれました。「なんかすごい世界ですね。
効率が悪いし、お世辞もうまくならなきゃダメなんですね」そう返すと先輩は、
大企業ほど資本力があるから、結局勝負ついちゃうんだよな」と言い、トップ企業のMRを指さして「あっち大企業、こっち中小企業」と自虐的に笑った。
とんでもない業界に来てしまったものだ。
新天地での生活が始まる
現場研修が終わり、支店長から「君には、温暖な地域に行ってもらう。静岡営業所の浜松出張所だ」と言い渡されました。
浜松に対する知識は、浜名湖やウナギパイ、ホンダ、ヤマハ、スズキの工場があることとくらい。
そんな見知らぬ土地での新生活の始まりです。
先輩はこの会社を中小企業と言っていましたが、社員寮として宛がわれたのは家賃8万円のワンルームマンションで、自己負担は、光熱費込み5,000円ポッキリ。テレビ以外の家電もすべて新品が支給されました。
初任給も高く、ボーナスは夏3.0倍、冬3.5と好条件。それでも製薬会社としては低いそうです。
待遇が良い分、仕事はハードで、自分に与えられた月間ノルマは650万円。大病院4件、開業医約100件が担当となりました。
MRの一日
MRの朝は、医薬品卸への挨拶から始まります。MRは、商品納入や価格についての交渉ができないので、卸の営業マンに取り入らなくてはなりません。
営業や配達に出かけるわずかな時間を狙って、ライバル他社の情報や病院の情報、医師の機嫌などを聞き出して飯のタネを作ります。
出張所に戻って朝礼を行い、それぞれの担当のエリアに向かうのが毎朝の儀式。
営業車はカローラやサニーなどの庶民的なセダンですが、自分の車で営業することも可能です。
ただし高級車はダメ、セダンでなくてはダメ、黒はダメなどの、条件が付きます。
つまり医者の優越感を阻害する行為はご法度なのです。
医者とMRの関係
営業と言ってもこれまでの仕事は、注文を聞いて商品を送る物流のような単純作業でしたが、MRの仕事はかなり難解でした。まず医者自体が話を聞こうとしない。
多くの患者を診た後で、入れ代わり立ち代わり業者が来て同じような話をするのだから当然です。
そこに食い込むために、医者の好みを知ることが大切になるのです。
ここまではどこの営業も同じですが、医者に「もらったらお返しをする」と言うGIVE&TAKEを求めるのは難しいため、各社のサービス合戦が勃発し、この傾向をますます助長するのです。
医者と製薬会社の関係は王様と召し使い。
「ウンコとそれにたかるハエ」
と言い切った人もいます。
とにかくモノ、カネ、ヨイショの3拍子が揃わなくては勝負にならないのです。
天職? 転職?
「仮払い」と言う営業費がMRの軍資金になります。おもな用途は医者への接待やプレゼント、医院内行事の協賛金に使われます。
売り上げが高くなるほど、仮払い金額が増え、より戦いやすくなると言うわけです。
私の最初の仮払い金額は45,000円でしたので、たいしたことはできません。
こんなストレスの溜まる仕事でも天職と言い切る人もいました。
医者への対応さえ我慢すれば、接待として高級な飲食店や、珍しい場所に行くことができるからだそうです。
確かに嫌なことも真剣に打ち込むことで好きになることがありますが、もともと人と話を合わせたり、一緒にいるのが苦手な私にMRは苦痛以外の何物でもありません。売り上げ目標も達成することなく月日が過ぎていきました。
そんな不良債権のような社員を放っておくほど会社は甘くなく、支店長直々に「今月は売り上げを達成するんだろうな」とどやされることも数知れず。
このままではまずいと思いながら、医者の威圧感と待ち時間に耐えられず、状況を変えられない日々が続きました。
仕事が終わっても帰れません
私の所属していた出張所は、課長以下5人の小集団でした。仙台から単身赴任していた課長は家に帰っても退屈らしく、よく社員を飲みに連れまわす人でした。
課長に言わせれば「こうして飲みに行くのも、接待の時に使える店を探すため」だそうです。
接待で飲み、プライベートでも飲み、製薬会社の社員は、肝臓がボロボロです。
高級なクラブや飲食店など、これまで行ったことがない場所に連れて行ってもらえる経験は貴重でしたが、いつも心の中で「早く帰してくれよ」と嘆いていました。
サイテーな奴らの集団
ある日のこと、前任の課長が社用で来られたため、課員全員で歓迎会を行いました。
前任の課長は、現在東京本社の勤務であり、久しぶりに訪れた浜松を懐かしみ、以前の部下の社員も思い出話で盛り上がっていました。
次第に酒の量が増え、酔いが回り始めると、課長代理が「もともとあんたのやり方は気に入らなかったんだ」と、前任者にかみつきました。
まるでゴングが鳴ったかのように、それを発端に残りのふたりも現在の課長に絡み始め、カウンターだけの小さな料理屋は、まるで修羅場です。
「サイテーな奴らだな」私がつぶやくと、若い女性店員が、「この会社、すごいって聞いてるよ。資本金なんか何億円もあるって」と言うので、「何が凄いものか。いい大人がこのザマだ」と言い残し、いたたまれずに店を飛び出しました。
夢もノルマも追えない
夢も追えず、ノルマも追えず、自分が何のために存在しているのかも分からなくなりました。好条件と引き換えに釣り積もるストレス。
辞めて帰りたいものの、また1年少々で親元に逃げ帰る情けなさに、どうにも気持ちが整理できず、一時は自殺も考えました。
「俺はまだ24歳だ。仕事なんかで命を失うなんてバカらしくないか? 恥なんて1回かけば終わりじゃないか」そう自分に言い聞かせ、退職を決意しました。
不採算社員の退職届は速やかに受理され、営業所長から「仕事はいいから、再就職を優先しろ」と言われる始末。複雑な気分で残りを過ごしました。
誰のために働くのか?
退職の数日前、課長に誘われて二人きりで飲みに行きました。
自分がこの会社に決めたこと、入社してからのこと、仙台にいる家族のこと、単身赴任の生活など、様々なことを話してくれました。
もしかしたら、誰かに愚痴を聞いてもらいたかったのかも知れません。
2件目の店は、そのまんま東に似たオカマのママが経営するバーでした。
そこで、こんな会話をしたことを昨日のように覚えています。
課長「本当に辞めるのか」
私 「はい」
課長「俺も辞めたいんだ、こんな足を引っ張り合うような会社、本当は辞めたいんだよ。でも家族がいるから辞められないんだ」
ママ「○○さん(課長の名前)には、守るものがあるけど、この子にはそれがないんだもの。未来だってあるし。全然別次元よ」
我慢の向こうに何がある?
その数日後、課長は長い単身赴任生活による不摂生がたたり、緊急入院になりました。
見舞いに行くと「仙台に戻れるようになったんだ」と笑顔を見せてくれました。
その姿は、まるで何かから解放されたようです。会社は命を落とす寸前までいかないと、社員の気持ちに気づかないのかも知れません。
石の上にも3年と言う言葉があるように、日本では長く一つの会社に勤めることがよいとされていました。
しかし、それは本当によいことなのでしょうか?
家族を守るために家族を犠牲にする理不尽さ。
働くとは何かを考えさせられる1年でした。
この記事の筆者
熊谷五郎(仮名)
一部上場企業、中小企業、国家公務員、地方公務員、私立学校教員、医療法人、社会福祉法人と多彩な(?)転職経験があり、それなりに良いことと、多くの嫌なことを経験しました。
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