【第3回】いろいろあった20代、30代の転職~国防と言う名の運動会~
一年少々で2度目の会社を退職し、静岡県浜松市から札幌の実家に戻ってみたものの、すでにバブルがはじけ、時代は長い不況に突入します。
社会経験が短く、即戦力にならない25歳の私を待ち受けていたのは厳しい現実でした。
- 体験者の情報
- 名前:熊谷五郎(仮名)
性別:男性
転職経験:7回以上
現在の年齢:45歳
転職時の年齢と前職:20代~30代
出戻ってはみたものの
札幌での生活は、実家に住まわせてもらっているので、なんとか食べて行くことはできましたが、一日中ブラブラしているわけにはいきません。
そうかと言ってまた失敗しそうな気がして、すぐに職を探す気にもなれません。
とりあえず製薬会社勤務の時に買ってしまった車のローンを支払うため、アルバイトを探すことにしました。
選んだバイトは、レンタカー会社の洗車係です。北海道の玄関口、千歳空港に近い営業所が勤務地で、学生のバイト仲間と一緒に毎日洗車に励みました。
売り上げも上下関係もなく、車さえキレイにしていればよいので、心身共に楽でした。
夏休み時期になり、お客様が増えたため今度は接客にまわされましたが、もともと旅行会社に入りたかっただけに、旅をするお客様の対応はお手の物。
その働きぶりとこれまでの経歴が営業所長に気に入られ、「うちに入らないか」と誘いを受けたのですが、妥協して就職することの失敗を繰り返したくなかったため、お断りさせていただきました。
寒風にさらされて
秋になり、観光客が減り始めたのを機にレンタカー会社のバイトを辞めることにしました。
次に選んだのは交通警備です。工事現場に立ち、棒を振って車の誘導をするのが業務です。
片側交互通行の警備は二人組となり、工事現場のトラックなどの出入りの誘導は一人の勤務となります。
秋の風は冷たく凍えながら仕事をしました。
日給は高いですが、拘束時間が長く、朝出勤した人が夕方に帰ってきても、自分はそこに立ったまま。
「大学まで出て一体俺は何をしているんだ」と言う自責の念が強くなり、結局半月で辞めることを決意しました。
給料を受け取りに行くと事務員に「まあ、ずうずうしい。こんなに早く辞めて会社に迷惑かけたのだから、給料は遠慮するものじゃないの?」
と嫌味を言われましたが、平謝りをして何とか5万円を受け取ったものの、とても惨めな気持ちで一杯でした。
1年が経過
雪が降り、冬の観光シーズンが始まると、今度は大手航空会社のスキーツアーのスタッフのバイトを始めました。
当時はまだスキー人口が多く、本州から飛行機でスキーに来る人のために、空港やホテルに航空会社や旅行会社のツアーデスクが置かれていました。
スキーツアーのスタッフの業務は、バスへの案内やゲレンデの状況などのインフォメーションです。
若い女性も多く、ロゴの入ったウエアも華やかですが、12月から3月の冬季限定のため、雪解けとともに新しい仕事を見つけなくてはなりません。
退職から丸一年が過ぎたものの、フリーター生活はまだ続いています。
友達に旅行会社の添乗員のバイトを紹介され、週に2、3回バスツアーの添乗を行いました。
一泊旅行の添乗を行った時、お客様の一人が、「実はうちの娘も旅行会社に入りたがったんですよ」と言って、娘さんを紹介してくれたのですが、その時知り合った彼女が、のちのち親友の奥さんになるのですから、人生はどこに出会いが転がっているか分かりません。
自衛隊に入隊を決意
バブル崩壊の余波は日本中を包み込み、卒業が決まっても就職先が見つからない「就職氷河期」が訪れていました。
経験の浅い私の再就職はますます難しくなり、もはや職を選んでいる状況ではありません。
「これでは結婚することもできない」と思い、ふと市の広報誌を見ると、「自衛官の募集」の記事に目が留まりました。
運動などは苦手でしたが、高校の同級生の運動音痴のミリタリーマニアが入隊したことを思い出し、自分にも務まるのではないかと考えて、記載されている場所に連絡をしました。
自衛官の募集は、地方連絡所(地連)と言う部署が担当しています。
大卒のため、幹部候補生を希望しましたが、時期的に募集していないとのことから、一般隊員として入隊し、昇進試験を受けることを勧められました。
看護師の資格を取るため衛生隊への配属を希望すると「適性を見て配属されます」とのこと。とにかく採用試験を受けてみることにしました。
「自衛隊は健康な人であれば誰でも入れる」とか、「学科試験に鉛筆でうっすらと答えが書いてある」などのウワサがありますが、あながちウソではなく、問題は中学生レベルです。
しかし最近では不景気の影響で受験者が増加し、不合格になる人もいるようです。
入隊までの地連の対応はよく、ヘリコプターやイージス艦の試乗や、駐屯地でのキャンプなど、様々な行事に参加させてくれました。
一般入隊者の多くが高卒なので、人員を集めるために楽しませていたのでしょう。
とうとう入隊の日が来る
秋のある日、とうとう入隊の日を迎えました。普通の就職と違うのは、仕事が終わっても家に帰ることができないこと。
これから3カ月は教育連隊での基礎研修、その後の3カ月間は駐屯地での研修、配属されてからも結婚するか幹部になるまで駐屯地内の官舎で生活することになります。
地連の人が迎えに来た時、「辞めておけばよかった」と、強く後悔しました。
駐屯地は有刺鉄線の張った柵の中にあります。「たまに教育期間中に逃げ出す人がいるのですが、自衛隊の総力を尽くして探し出し、かかった費用は家族や本人に請求します」とけん制。
有刺鉄線や塀は内部に向けられていることを実感します。自衛隊では自虐的に一般社会を「シャバ」と呼びます。
門の前には見張りの自衛官が24時間待機し、自由に出入りすることはできません。
これから隔離された日々が続くのです。
まずは官舎に案内されました。ロッカーだけで仕切った大部屋に、約30人が共同生活します。
10名ほどがひとつの班を形成し、共に行動します。まわりを見渡すと18歳から20歳が多く、私は最年長でした。
名簿を見たひとりが、「25歳のヤツもいるぞ」と言うので、努めて明るく、「それ俺。宜しく」と答えました。
えらく場違いなところに来てしまいましたが、馴染まないことには続けられません。
次に頭髪検査が行われ、ほぼ全員が駐屯地内の理髪店で丸坊主にされます。まるでそれは自衛官になるための儀式のようでした。
新入隊員の一日
新入隊員の朝は、6時のラッパの音と共に始まります。二段ベッドから起き出し、すぐに作業着に着替えて3分以内にグラウンドに集合。
点呼を取ったら腕立て伏せなどの運動をし、それが終わったら駆け足で食堂に向かい、班長の計測時間以内に飯を胃袋に流し込みます。
食後も駆け足で官舎に戻り布団を綺麗に畳んで洗面などを済ませて訓練を行います。
簡単に言えば毎日が運動会のようなものです。
仕事が終わったからといってくつろぐことは許されません。時間内に風呂に入り、作業着にアイロンをかけ、半長靴(はんちょうか)と呼ばれるブーツをピカピカに磨き、官舎を隅々まで清掃します。
少しでも汚れていれば、鬼の班長から天罰を食らいます。布団やロッカー内の乱れもチェックされ、少しでも気に入らなければ、さらにメチャメチャにされる罰則が待っています。ここにプライベートなどないのです。
班長は三等陸曹が務めます。中には22、23歳の若い班長もいますが、自衛隊は階級がモノを言うため、年齢に関係なく絶対服従です。
私の班の班長は、二つ年上でしたが、少しでもフレンドリーに話そうものなら、「ああ? 俺とお前は友達か?」と凄まれました。
「有事の時には命の危険を顧みない兵隊に頭はいらない」幹部はそう言い放ちました。
自衛隊は世論によって守られているものの、まぎれもなく軍隊なのです。
体罰ではなく体力づくり
自衛隊は週休二日制ですが、班長の判断により休日でも外出を禁止されることがあります。
また、外出の際にも班単位での行動が義務付けられています。自衛隊において団体行動・連帯責任は絶対条件なのです。
ある日の日曜日、外出禁止を命じられた新入隊員たちは、グラウンドで野球をし始めました。
実は休みの日でもワッペンの縫い付けや、アイロンがけなど、やらなくてはならないことがあるため、私は彼らに「いいかげんなところで切り上げた方がいい」と言いましたが、若い彼らは聞き入れず夕方まで野球を続けていました。
そしてその夜に、恐ろしいことが起こったのです。
私を含む4名だけが官舎に残され、全員がその真下にある詰所に集められました。
終わりなき腕立て伏せ地獄が始まったのです。すでに消灯を過ぎていましたが、悲鳴が大きくて眠ることができません。自分もそこに加わっていたらと考えるとゾッとしました。
箸休めに自衛隊の専門用語・隠語
先ほども書いたとおり、駐屯地の外の世界を指す隠語です。「シャバの会社」は「一般企業」「シャバの大学」は、防衛大学以外を指します。
駐屯地の中のこと。理髪店から居酒屋まで何でもそろっています。
新入隊員が脱走することです。
午後5時30分のことです。ちなみに時間をあらわすときは「なな」と呼びますが、点呼の返事は「しち」と答えなければ怒られます。
布団やロッカー内が乱れていると、班長にさらにメチャメチャにされると言う大人げない罰則です。
それぞれ、陸・海・空の女性自衛官の愛称。男性には使われません。
ハンバーガーのことではなく、隊員の特技の区分。戦車の操縦とか、ミサイルの管理など、自衛隊内でしか役に立たない資格はいっぱいあります。
一般大学を卒業して幹部候補生試験で採用された幹部のことです。
灰皿は「煙缶(えんかん)」、バッグは「雑納(ざつのう)」、革靴は「短靴(たんか)」、ブーツは「半長靴(はんちょうか)、テントは「天幕(てんまく)」、レインコートは「雨衣(あまい)」、ヘルメットは「鉄帽(てつぼう)
など、普通に言えばいいのにと思うものが、なぜか難しく言い変えられています。
駐屯地内の売店のこと。アメリカ軍の基地の売店Post Exchangeからきていいます。
これだけの漢字好き集団が、なぜ売店だけ横文字なのかは不明。
男所帯なせいかエロ本が豊富です。駐屯地によって自衛隊グッズを売っています。
怪我、そして入院
毎日の運動会のような生活に、右足の関節が痛み始めました。
以前スキーで転倒し、痛めていた膝が悪化したのです。眠ろうとしても痛みが強くて眠れません。
班長に病院を受診したいと申し出ましたが聞き入れてもらえず、数日間我慢して訓練を続けました。
このままでは体が持たないと思い、山岳訓練中に足を怪我したふりをして幹部に直訴。
なんとか病院に連れて行ってもらうことができました。
診察結果は変形性膝関節症。手術が必要な状態でしたが、自衛隊病院の病室が空いていないことから、一週間先送りされ官舎に戻されました。
ここからが一番きつく、怪我を負っているにも関わらず訓練は続行、右足がダメなら左足で体を支えて腕立て伏せをしろとか、上半身だけでも鍛えろと、安静にすることが許されません。
人生でこれほど一週間が長く感じたことはありませでした。
入院生活はまるで天国。陸・海・空の様々な階級の人が入院していますが、上下関係はなく、普通に接することができます。
医師や看護師も自衛官ですが、いちいち敬礼する必要はありません。
研修は先に進んでいたので、私は退院と同時に退職しました。自衛隊の在籍期間は約2カ月。
そのうち入院期間は1カ月。こうして自衛隊生活は、あっと言う間に終了しました。
当時はコマーシャルのように短く終えた自衛隊から得るものなどないと思っていましたが、いま振り返ると多くのことを学びました。
・プライバシーが守られることが大切なこと
・人間には開放的な空間が必要なこと
・リハビリには目的が必要なこと
・都市構造が不自由な体で生活することの障壁であること。
それらの経験が、以降20年にわたる職業の礎になっていくのです。
この記事の筆者
熊谷五郎(仮名)
一部上場企業、中小企業、国家公務員、地方公務員、私立学校教員、医療法人、社会福祉法人と多彩な(?)転職経験があり、それなりに良いことと、多くの嫌なことを経験しました。
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