【第4回】いろいろあった20代、30代の転職~ホンネを言ったら即採用~
自衛隊を辞めた頃、世の中はどん底な不況に突入しました。
食品会社やレコード会社、工場から販売業まで、手当たり次第に応募したものの履歴書を書いても書類で落ちる毎日。
その理由は自分でも分かっていました。
志望動機が曖昧なのです。
それほどやりたいと思わない仕事に、情熱的な志望動機など書けるわけがありません。
結局、旅行会社やレンタカー会社など、今まで行ったことのある仕事で食いつなぐ毎日でした。
- 体験者の情報
- 名前:熊谷五郎(仮名)
性別:男性
転職経験:7回以上
現在の年齢:45歳
転職時の年齢と前職:20代~30代
すべては「何だそりゃ?」から始まった
そんなことを1年以上も続けたある日、就職情報誌をペラペラとめくっていると「医療法人社団○○ 老人保健施設ソーシャルワーカー募集」の記事が目に入りました。
それがどんな職種で何をする仕事なのか見当が付かなったため、福祉系の仕事をしている友達に電話をし、「ソーシャルワーカーって何?」と聞くと、「家族や利用者からの相談を聞く仕事だ」とのこと。
「医療機関なら勤務先を聞かれてもカッコウがつくかな」と思い、なんとなく受けてみることにしました。
老人施設には、特別養護老人ホームや有料老人ホームなど様々な施設があります。
老人保健施設は、病院と福祉施設の中間的役割を担い、一定期間リハビリを行って在宅に戻す施設ですが、当時はまったく知識がありませんでした。
施設に到着して周りを見渡すと、車椅子に乗った高齢者がパーキングのように一か所に集められ、退屈そうな顔をしています。
「ああ、これが老人ホームか」と思いました。
ホンネを言ったら即採用
面接には多数の福祉経験者らしき人が来ていたので、一瞬で「ああ、こりゃダメだ」と諦めましたが、せっかく来たので、言いたいことだけ言って帰ろうと思い面接に臨みました。面接官は事業部長だと名乗りました。
小林幸子に似た40歳くらいの華やかな女性です。その時の会話は下記のとおりです。
面接官「初めて見た施設の感想を聞かせてください」
私 「第一印象は、一か所に集められて、みなさん退屈そうだなと思いました」
面接官「では、どうやったら楽しそうになりますか?」
私 「年に何回か行事を行っているそうですが、それだけでなく日常生活に楽しいとか、嬉しいと感じることを提供すべきだと思います」
面接官「そうですか。ではあなたが施設を変えてください」
何と、どうにでもなれと思って行った言葉が正解だったのです。
医療・福祉業界は、マンネリズムに陥りやすく、現状を変えられない傾向にあります。
例えばリハビリをすることはできても、元気になった後のビジョンが立てられないのです。
そこに一石を投じる人材が欲しかったと言われました。
こんなことがきっかけとなり、以降20年に渡って飯の食い種となる「高齢者介護」の道が開けたのです。
人生観が変わった介護実習
かくして医療ソーシャルワーカーとして採用されましたが、すぐに相談業務を行うのではなく、各部署の研修を終了してから配属するとのことでした。
最初は介護現場の研修です。
身体介護は重労働な上に、便や尿を扱わなくてはならず決して楽な仕事ではありません。
一緒に採用された介護員は3日で姿を消しました。
もちろん私も辛かったのですが、実はフリーターの身でありながら結婚までしてしまい、いい加減地に足をつけたかったのが踏みとどまった理由です。
介護実習は1週間の予定でしたが、私の提出する日誌の内容や実習態度が気に入らないと言う介護係長の判断で、結局1か月間も行うことになりました。
介護実習は、認知症の高齢者の対応がおもな仕事でした。
鏡に映る自分が現在の自分の姿と認識できず鏡に罵声を浴びせる人や、一晩中大声を上げる人、一日中歩き回る人など、今までに見たことのない行動をする人が多く、驚かされるばかり。
日々こうした方々の対応を行っているからなのか、高齢者施設の女性職員は気の強い人が多いことにも驚かされました。
今は改善されていますが、こんなひどい時代もあったのです。
やっと得られた確信
ある日、言語障害のため言葉によるコミュニケーションが取れない方の部屋にお邪魔した時のことです。
この方は相撲が好きなようで、部屋には四股名の入った湯飲みやグッズが飾られていました。
こちらの言葉は理解できるので、「どの力士が好きなのですか?」と尋ねたところ、当時人気の若乃花を指さしました。
「どんなところが好きなのですか?」と続けるとジェスチャーで、「小さいけど技がある」と示してくれました。
その時私はハッとしました。それまで認知症や言葉が話せない高齢者とのコミュニケーションなど難しいと思っていたのですが、意外に簡単に意思が通じることに気付いたのです。
徘徊にも大声にも意味があり、それを迷惑行為、問題行動と取るかメッセージと取るかは、受け取り側の感性なのだと。
私はこの瞬間、福祉の仕事には打ち込むべき価値があると確信しました。
この施設には、他に2人の医療ソーシャルワーカーがいましたが、二人とも病欠とのことで、誰に教えを乞うこともできずに仕事がスタートしました。
ソーシャルワーカーの主な業務は、新規利用の相談を受けること、現在利用している方の在宅復帰の方策を立てること、日常生活上の問題の相談に乗ることの3つです。
医療や福祉の知識がないので、毎日が勉強でした。
あまり記録が残っていず、どういった経路で入所し、現在どこまで話が進行しているか分からないため、片っ端に家族を呼んで話を伺いました。
一方で当初の約束通り、利用者の日々の生活の充実も忘れません。
「お酒を飲みたい」と言う方のために、なかなか首を縦に振らない看護部長を説き伏せて施設内居酒屋を開店したり、売店の賞味期限を徹底するなど、様々なことに着手しました。
忘れられない高齢者
老人保健施設には個性豊かな高齢者が入所していました。その中でも思い出深い方に安田栄収氏(仮名)と言う在日朝鮮人の方がいます。
幼い頃日本に連れて来られ、再度祖国の土を踏むことなく日本の炭鉱町で働いていたそうです。
歴史に翻弄された彼の老後は、無類の酒好きが災いし、一人暮らしを継続できずにいたところを保護され、無理やり施設に入所させられると言う意に反したものでした。
時々無断で施設から出て行き、捜索されることもしばしば。
安田栄収氏にとって施設は生活するには事足りるものの、飲酒を規制される不自由極まりない場所でした。
ある日突然それは起こった
ある日のこと。突然思い立ったように「一緒に炭鉱で働いていた金森さんに遭いたい」と言い、安田さんは静止を振り切って玄関に向かいました。
「待ってください。金森さんって誰ですか?」と聞いても、「一緒に朝鮮から来た仲間だ。まだI市に住んでいるはずだ」と言って飛び出して行こうとします。
興奮収まらないと言う感じなので、金森さんの家まで連れて行くと言い車に乗せました。
「金森さんの下の名前は?」と聞いてみても覚えていないと言い、「I市のどこに住んでいるのですか?」と聞いても「行って見れば分かる」と言いラチが空きません。
しかも最後に遭ったのは20年ほど前だと言います。
何の手がかりもないままI市に車を走らせました。
「今、I市ですが、どのあたりか覚えていますか?」
「線路を越える大きな青い陸橋があった」
20年前と比べれば街の景色も様変わりしているはず。
本当に20年前なのかも疑わしいものでしたが、ただ興奮状態のまま押さえつけていても何の解決にもなりませんし、自分の目で探して納得してくれさえすればいいと思いました。
「かなり前のことだから、陸橋なんか見つからないかも知れませんよ...」と言いかけて驚きました。
なんと、線路を越える大きな青い陸橋を発見してしまったではないですか! 建物は変わっても、こう言う建築物は簡単には変わらないようです。
私はすでに刑事の気分になり、頭の中に「太陽にほえろ」のテーマソングが流れました。
俄然やる気が出てきた私は、「ここからどう行ったらいいのですか?」と聞くと、「陸橋を渡って真っ直ぐ行くと橋がある」と言います。
その言葉どおりに走ると、まさにその通りの風景に出くわしました。
もしかしたら金森さんに遭えるかも!
しかしそこまででした。やはり街は変わり果て、新しい家並みを形成していました。
変わらないものに導かれここまで来ましたが、変わってしまったものに道を閉ざされたのです。
近所や交番で聞き込みをしたが、金森と言う苗字も在日朝鮮人の存在も確認出来ませんでした。
帰る途中にコンビニで自腹を切って焼酎を買い、安田氏に渡しました。
アルコール依存症に酒を与えることは火に油を注ぐようだと施設では禁止されていましたが、皆が思うほど安田氏に節操がないとは思えなかったのです。
安田氏は久しぶりの酒を美味そうに飲みほしました。
「もう一本飲みますか」と聞いても、遠慮がちに「いや、いい」と笑みを浮かべました。
ウソが真実になる!
これで満足して落ち着いてくれる...なんてことは認知性高齢者に期待してはいけません。
数日後に再び「金森さんに会いに行く」と騒ぎ始めました。
「今日は車で連れて行きませんよ」と言うと、「タクシーに乗って行く」と言います。
「お金を持っていないでしょう」と言うと、「タクシーを降りるときに運転手を殴って逃げる。昔は何度もこの手で成功した」と誇らしげに言います。
これではキリがない。考えた末にひとつのアイディアが浮かびました。
「実は金森さんと連絡が取れましてね。手紙を貰いました」そう言って安田氏に自分で書いた手紙を手渡しました。
幼くして強制連行された彼は、日本語は達者ですが、母国語が話せず字も読めません。
日本語で読み書きできるのは自分の名前だけでした。
日本のエゴイズムの犠牲になった人。そう思うと日本人として何とかしたい。
得体の分からない人探しに付き合ったり酒を奢ってあげたのも、そんな気持ちがあったからかも知れません。
「読みますよ」そう言って自分で書いた手紙を読み上げました。
「安田、元気か。俺を探してると聞いて嬉しく思う。残念ながら俺は三年前に祖国に帰った。今は釜山で暮らしている。遭えなくて残念だが、お前も身体に気をつけて暮らせよ。金森より」
手紙を読み終わると、安田氏は感嘆混じりに「そうか、あいつ祖国に帰ったのか」と言い、大事そうにそれをポケットに仕舞いました。
嘘をつくとエンマ大王に舌を抜かれるのなら、この手の嘘をつき続けている私が抜かれる舌は、一本では足りないでしょう。
しかし、それで癒される人がいるのなら、嘘をつくことがすべて悪いとは言えないと思います。
その後、安田氏が「金森さんに遭いたい」と言うことはなくなりました。
普通ならこれで終わりですが、それから数日後、在日朝鮮人の所在を調査している団体から安田氏が施設に入所しているかと言う確認の電話がありました。
ついでにと思い、「安田氏が親しくしていた金森氏を知っていますか」と尋ねたところ、「ああ、安田さんと親しくしていた方ですね。何年か前に韓国に帰られたんですよ。
帰る前にお会いしたんですが、安田氏のことを気にかけていましたよ」との返答が!
何と嘘つきにならずに済んだのです!
それから数年後、安田氏は違う施設に移ったそうですが、施設の職員の話によると、その後も私が書いた金森さんの手紙を大事に持っているそうです。
次のステップにトライ
高齢者福祉の仕事で自信をつけ、この道を進もうと決心した私は、欲が出てきました。
前述したとおり、老人保健施設は医療と福祉の中間施設なため、家に戻すことを目的としていますが、多くはリハビリをしても家に戻ることができない人がたくさんいます。
ならばいっそ施設での生活を生活の充実に特化した施設で働きたいと思ったのです。
その希望を満たしてくれるのが「特別養護老人ホーム」でした。
終の棲家である特別養護老人ホームは、基本的に家に戻る必要はありません。
「キャリアは短く資格もないがやる気十分。そんな人材はいりませんか?」
と、約200か所の特別養護老人ホームに電話をしまくり、山のふもとにある大自然に囲まれた施設から内定をもらいました。
採用してくれた小林幸子似の部長にそのことを話すと、「辞めるのは残念だけど、タンポポの綿帽子が空に広がって、他の場所に花を咲かすように、ここで得たことを役立ててください」と言われ円満退職。
新しい世界に旅立つことになったのです。
この記事の筆者
熊谷五郎(仮名)
一部上場企業、中小企業、国家公務員、地方公務員、私立学校教員、医療法人、社会福祉法人と多彩な(?)転職経験があり、それなりに良いことと、多くの嫌なことを経験しました。
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