【第5回】いろいろあった20代、30代の転職~100か所に問い合わせて掴んだステップアップ~

当時の老人保健施設は医療色が強く、利用者の生活の質については、あまり重視していませんでした。

利用者の生活の質の向上を中心に仕事をしたいと考えた私は、それを実現できそうな施設、「特別養護老人ホーム」に片っ端から電話して自分の考えに賛同し、雇い入れてくれるところを探しました。

その中のひとつの施設が、受け入れを快諾。

日々楽しいことを探求することが仕事になったのです。

体験者の情報
名前:熊谷五郎(仮名)
性別:男性
転職経験:7回以上
現在の年齢:45歳
転職時の年齢と前職:20代~30代

ポジティブな転職理由

これまで働いていた老人保健施設は、高齢者にリハビリを行い、家に戻すのが役割でしたが、リハビリで思ったように回復する人など1割もいませんでした。

しかも自ら希望して施設に入る人など誰もいません。

「それなら一時でもいいから、楽しいと思える時間を作りたい」

それを実現するために特別養護老人ホームに転職したのです。

「ノルマがきつい」とか、「ケガをした」と言ったネガティブな理由でないため、心が弾みます。

施設は人口2,500人程度の小さな村にありました。

目の前には大きな山がそびえ、野趣あふれる温泉も多い環境のよい場所です。

私の職種は生活相談員で、利用相談や介護職員の勤務調整、介護計画の作成や行事の企画実施、採用面接など多岐にわたりました。

どれもやりがいがあり、「転職してよかった」と思ったものです。

利用者が楽しいと思う行事も多数計画しました。当時はまだ介護保険法施行以前であり、施設は自治体から「措置費」という名の公費をもらって運営をまかされていました。

措置費とは簡単に言えば委託料のようなもので、一人に付き毎月約25万円程度を自治体から施設に与えられ、その額で利用者の衣食住や娯楽、職員の賃金を賄ってくださいと言う趣旨のものです。

しかも、その月の1日付の利用者人数分が支払われるので、途中で定員が割れても翌月1日までに補充していれば問題がない。

定員50人の施設だと、単純に計算して1千2百50万円が月収となり、年収にすると1億5千万円。

ちっぽけな施設でも、立派な企業並みの年収があったので、こんな豪華なことも行えました。

異業種からのインスパイア

施設では様々な行事やレクリエーションが行われていましたが、もっともお金をかけたのは、「施設にいながらにしてホテルの料理を楽しんでいただく」と言う企画です。

リゾートに立地していたため、地域のホテルの全面協力により実施したケータリングサービスを行いました。

前日よりホテルから運び込まれたテーブルや椅子、グラスなどがセッティングされ、調理室も同様にホテルの調理人が配置され、高らかに炎をあげて調理が始まります。名札に従って全員が着席。

既存のテーブルにクロスを敷き、借り物の円卓を置いた「なんちゃってバイキング」ではなく、すべてホテルから持ち込まれた調度品です。

整列した人達もホテルの制服に身を包んでいるとあれば、気分も最高!調理長から本日のメニューが紹介された後、シャンパンで乾杯。パーティが始まりました。

「演出を施した料理で皆さんに楽しんでいただきたい」との挨拶の言葉どおり、今回のテーマは見せる料理。

中でも天ぷらはみんなの前でジュージューと揚げるパフォーマンスつき。圧巻は手毬をかたどった美しい寿司。

色彩豊かな料理の数々は、味冴え渡る食の祭典。素晴らしい料理の数々が次々と差し出されます。

「いやぁ、今までこんなご馳走、見たことも食べたこともないなぁ。本当にたまげた!」

「勿体無くて食べられない」などと皆の反応は様々。しかし食べ始めると、あちこちから「美味しいなぁ」と声があがり、笑みがこぼれています。

「次も楽しみにしている」と言われ、「演出を施した料理」は大成功でした。

今回の料理は、通常何千円もするコースでしたが、赤字を覚悟で地域への啓蒙活動の1つとして破格で行ってもらえました。

ホテル側の理解が得られたからこそ実現した企画なのです。

福祉の業界は割りと閉鎖的であり新しい考えが生まれにくいものですが、異業種の方と話し、感銘を受けることで常識を破ることができると痛感しました。

その後も「店に行けないなら店を呼んじゃえ」と、洋品店の商品をまるごと持ってきてもらい展示販売会を行ったり、「新鮮な魚介を食っちゃえ」と、施設では提供することのできない海鮮を食べに港町に行ったり、「大人なんだからいいじゃないか」と銘打ち、100㎞先のビール園に行って、ジンギスカンと生ビールを楽しむなど、次々に計画を実施しました。

プロになるためのパスポート

老人保健施設に勤めた最初のころ、 自分では核心を突いたことを言ったつもりであるのに、「素人風情が」と言う顔をされることが多かったため、仕事と並行して資格取得にも乗り出しました。

目指すは社会福祉士です。

福祉系大学を卒業していればストレートに受験できるのですが、その他の大学卒業の場合は、専門学校などの養成校で約1年半にわたり必要科目を履修しなければ受験することができない上に、毎年の合格率が30パーセント未満の、とても敷居の高い資格なのです。

私は専門学校の通信講座に入校し、仕事の合間にコツコツと勉強をつづけました。

資格の取得目的は、福祉の知識を身に着けるためだけではなく、キャリアパスのためでもあります。

そのころ施設に多くの学生が実習に来ていましたが、彼ら彼女たちの指導をしていく中で、福祉の専門学校の教員になりたいと言う考えも芽生えたのです。

そのためには社会福祉士の資格が絶対条件であり、さらに資格取得から5年以上の実務経験を積むことが必要です。

合格が1年遅れるごとに教員になることも遅れてしまうので、1発で合格するしかありませんでした。

昼食はさっと済ませ、後の時間は問題集に噛り付く、家へ帰ると予定のページまで完璧に解けるようになるまで勉強を終わらせない、運転中は妻に問題を出してもらって解答するなど、ストイックな努力の甲斐があり32歳で1発で合格。

将来の夢の切符を手に入れることができました!

人の人生にかかわる重さ

特養を退所する事情の大半を占めるのが入院です。

なぜ「死亡」でないかと言うと、体調を崩すと協力医療機関に入院させ解約する例が多く、施設内での突然死は少ないからです。

入院の際、家族に了解を得ますが、中にはまったく身寄りのない人もいます。そう言った人達の救済を担うのも特養の使命です。

私は人が死ぬことが特別なこととは思わないし、自分にもそのときが来ると思いながら生きています。

しかし、生きることも死ぬことも自分で決めることが出来ない状態になったらどうなるでしょうか。

最後に数々の死を見てきた中で、一番辛かった出来事を紹介します。

入所までの経緯

大竹氏(仮名)が施設に入所したのは、ある秋のことでした。

3つ隣の町の出身で、30歳で離婚後、妻や子供たちとも疎遠でした。

身元引受人は唯一の肉親と言える実の姉がなってくれましたが、元来行き来もなく、入所3年を経過しても面会はおろか、誰からも手紙が来ることはありませんでした。

入所の経緯は、生活保護を受けて同町で一人暮らしをしていたものの、大量な飲酒が原因と思われる重度な糖尿病を患い、合併症状として右目失明、右足切断により独りでの生活が困難なため、町の生活保護課、福祉課を通して、一番早く入所できる当施設に緊急保護として入所になりました。

一人暮らしが寂しかったのか、大竹氏はすぐに施設に慣れ、通りすがりに女性職員の尻を触る茶目っ気も発揮しました。

認知症はなく、片足だけながら、椅子やベッドに移ること、トイレで立って用を足すこともできます。

そして異変は入所後、3年目の冬に起きました。

肉親の死が人を変えた

突然大竹氏は「姉に会いたい」と言い出しました。自分以外の者に面会や電話があるのを見ているのですから、人恋しさも無理はありません。

早速身元保証書に記載されている姉のところへ電話をしました。

本来、一切連絡はしないで欲しいとのことでしたが、本人の様子が尋常でなかったので、やむをえません。

しかし、電話は「使われておりません」を繰り返すばかり。

町の福祉課に事情を話し、姉の行方を調べてもらうと、すでに半年前に亡くなったと判明しました。

大竹氏は、会うたびに「いつ姉と会える」と聞いてきます。

いつまでも誤魔化しているわけにも行かず、事実を伝えると、「そうか・・・」と言って落胆していました。

もともと食の細い大竹氏でしたが、その後、突然絶食を始めました。

理由を尋ねても「食べたくない」「食べたら吐いてしまう」「もう死んでもいい」と言い放つばかり。

最寄の診療所に連れて行き検査を行うものの、胃カメラを飲み込むことができず原因は不明。

レントゲンや採血からは特別変わった点はなく、精神的なものと判断され「しばらく様子を見ましょう」と言って帰されました。

その後も食は細く、職員がいくら促しても嘔吐しながらオニギリを一つ食べるのがようやっとです。

食事中に何度も嘔吐するため、一緒のテーブルに着いていた他の利用者は露骨に怪訝な顔をします。

ふさぎこんで寝ていることが多く、衰弱は目に見えて分かりました。

施設で餓死!?

介護員は困り果て、栄養士は「栄養が足りない、何とかして欲しい」と、看護師と私に噛み付くものの、「何とかして欲しいと言われても、手は尽くしたし、声かけや促しにしても本人が拒絶する以上、方法がない」と困り果てていました。

私は大竹氏に、「お姉さんの他に会いたいと思う人はいないですか?」と聞きました。

すると大竹氏は「小林医院(仮名)の先生に会いたい」と言いいました。

小林医院はかかりつけ医院であり、いわば親身に聞いてくれる「赤ひげ先生」だったらしいのです。

小林医院に電話をすると、大竹氏を覚えており、会いに行くことを快諾してくれました。

しかも高齢のため、今月一杯で廃業する予定だと言うので危機一髪です。

二日後、吹雪の道を走り、大竹氏を連れて小林医院に向かいました。

小林医師は暖かく迎え入れてくれたため大竹氏の表情も柔和になり、これですべてが解決してくれたらと願いました。

しかし結局、一時的な解決にしかならず、相変わらず食事は取れないままに時間が過ぎ、「死にたい」「おやじやおっかあ、姉のところに行きたい」と繰り返すばかりです。

施設長を含めて全員で検討した結果、入院させることしか方法がないと言う見解に達し、協力病院に相談しました。

病院のソーシャルワーカーは、身寄りのないことに抵抗を示したが、介護度が高いこと、入院手続きを施設が、事後のやり取りについては町の福祉課が担当することで承諾してくれました。

それから数日後、病院から「入院中においてもまったく食事を取らず、生命を維持できないため、胃に穴を開けて栄養分を送り込む手術をする」と連絡が入りましたが、すでに退所手続きを済ませていたため、町の福祉課に判断を委ねました。

終焉の瞬間

半年後、病院に用事があったため、大竹氏の病室を訪ねてみてみると、栄養チューブを抜き取るため、手をベッド柵に縛り付けられていました。栄養分は足りているようで顔色はよいようです。

こちらに気づくと一言、「紐、外してくれ」と言いって私を見ます。

死ぬことを希望していた人が、死ぬことを許されず生きている姿がそこにありました。この人は、一生このまま生きていくのでしょう。

「残念だけど、もう大竹さんと私をつなぐものは何もない。紐を解くことも、解くように頼むこともできない。あの時ちゃんと食べてくれれば、こんなことにはならなかったのに」と思い病室を後にしました。

それから4年後、夢を見ました。夢の中には大竹氏が出てきてこう言い放ったのです。

「あの時死なせてくれればよかったのに」と。その日、大竹氏が亡くなったことを直感しました。

私の仕事は、これからも何人もの最後を見届けなければならないのです。

この記事の筆者

熊谷五郎(仮名)
一部上場企業、中小企業、国家公務員、地方公務員、私立学校教員、医療法人、社会福祉法人と多彩な(?)転職経験があり、それなりに良いことと、多くの嫌なことを経験しました。

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